君に届くのは、10分の1だけ

一ヶ月、と言われた次の日も、朝は来た。

来てしまった、と思った。

目が覚めた瞬間、昨日のことが夢じゃなかったと分かる。
それだけで、胸の奥が重くなる。

制服に着替える。
髪を整える。
いつも通り家を出る。

そういう動きはできるのに、頭の中だけがずっと同じ場所に止まっていた。

一ヶ月。

その言葉が、朝からずっと消えない。

学校に着いて、教室に入る。
出席が始まる。
名前が呼ばれる。
返事をする。

去年の春には、それだけで救われた。

でも今は、自分の名前を呼ばれても、
律の名前がここでは呼ばれないことばかり気になった。

美術科だから、もともと同じ教室ではない。
そんなの前から同じなのに、
今日はそれがひどく遠く感じた。

昼休み、私はスマホを見る。

律からはまだ何も来ていない。

病院にいるのか、家にいるのか、
今日は少し元気なのか、しんどいのか、
何も分からない。

分からないことが、こんなに苦しいなんて思わなかった。

授業が終わってから、私は美術科棟の近くまで行った。
行ったところで律がいるわけじゃない。
でも、行かずにはいられなかった。

美術室の扉は閉まっていた。

中の様子は見えない。

あの絵も、今日はきっと昨日のままだ。

止まったままのものが、ひとつある。
そのことが、妙に現実だった。

スマホが震えたのは、そのときだった。

今日、家帰った
ちょっとだるい

短い文。

でも、病院ではなく家にいることが分かって、少しだけ息ができた。

よかった
無理しないでね

送る。
少しして、返ってきた。

うん
たぶん来週から少しずつ学校行く

その文を見て、私は画面をしばらく見つめた。

来週。

そんな言い方をされるだけで、胸が痛かった。
前なら、明日とか、放課後とか、そういう単位だったのに。

一週間が、急に重くなっている。

それでも私は、できるだけ普通の返事を打つ。

会えたらうれしい

送ってから、少しだけ迷う。
重かったかもしれない、と思う。

でも律はすぐに、

俺も

と返してきた。

たった三文字なのに、泣きそうになった。

それからの日々は、前より静かだった。

律からの連絡は来る。
でも、前より少し減った。

来ても短い。

起きた
病院だった
薬で眠い
今日はきついかも

そういう文が増えた。

私はなるべく、いつも通り返した。

そっか
無理しないで
返事いらないよ
ちゃんと休んで

本当は、会いたかった。
声が聞きたかった。
顔を見て、大丈夫じゃなくてもいいから、そこにいてほしかった。

でも、そんなこと言えなかった。

律のしんどさの前で、
私のさみしさを出すのは違う気がした。

数日後、律は本当に学校へ来た。

昼休み、美術科棟の前で待っていると、
少し遅れて律が歩いてきた。

それを見た瞬間、胸がぎゅっとなった。

会えた、と思った。
うれしかった。

でも、同時にすぐ分かった。

前と少し違う。

歩く速さが少し遅い。
顔色も、少し白い。
笑うといつもの律なのに、
その笑うまでに、わずかな間がある。

「水瀬」

名前を呼ばれる。

それだけで、泣きそうになる。

「……来たんだ」

そう言うと、律は少し笑った。

「来たよ」

その声はちゃんと律の声だった。
でも、少しだけ薄い気がした。

私たちは渡り廊下に並んで立つ。

前なら、会えただけでもっと素直にうれしかった。
今はうれしいのに、それより先に心配が出てしまう。

「大丈夫?」

すぐにそう聞いてしまう。

律は苦笑した。

「それしか言わない」

「だって」

その先が続かない。

だって、本当に心配だから。
だって、もう一ヶ月だって知ってしまったから。

律は少しだけ手すりにもたれて言う。

「今日はまあ、来れた」
「でも毎日は無理かも」

その言い方は、軽くしようとしているのが分かった。

私はうなずく。

「うん」

それしか言えない。

無理しないで、も違う気がした。
来てくれてうれしい、も、ちゃんとした形にならなかった。

律はそんな私を見て、少しだけ目を細めた。

「そんな顔しないで」

やさしい言い方だった。

でも、そのやさしさが逆に苦しい。

そんな顔って、どんな顔なんだろうと思う。
たぶん私は、自分でも分からないくらい、必死な顔をしていた。

「……ごめん」

小さく言うと、律は首を振った。

「謝らなくていい」

その返しが、前にもあった気がして、
胸の奥が少しだけ痛くなる。

同じ言葉なのに、前とはまるで違う。

その日、律は午後の途中で帰った。

体調が悪くなったとかではなく、
先生たちと相談して、無理のないうちに、ということらしかった。

でも、私はその「無理のないうちに」が嫌だった。

もうずっと、何かが減っていく言葉に聞こえるからだ。