「やだ」
「そんなの、やだ」
涙が出ると思った。
でも最初は出なかった。
泣くことすら追いつかないくらい、頭の中が混乱していた。
「ごめん」
律が言う。
その一言で、私は顔を上げた。
「なんで瀬川くんが謝るの」
思ったより強い声が出た。
自分でも驚いた。
でも止められなかった。
「謝らなくていい」
「そういうの、違う」
律が少しだけ目を伏せる。
「……でも、水瀬に言うの、きついなと思って」
その言葉で、やっと涙が出た。
ひとつ出ると、止まらなかった。
私は慌てて顔をそらす。
律の前でこんなふうに泣くのは嫌だった。
でも、どうしても止まらない。
一ヶ月。
頭の中でその言葉だけが何度も反響する。
一ヶ月後、この人がいない世界。
それを想像しようとして、できなくて、
できないのに、やってくることだけは分かってしまう。
そんなの無理だった。
律が、少しだけ近くで言う。
「水瀬」
その声がやさしくて、余計につらい。
私は涙を拭きながら、うまく息を吸えないまま答える。
「……やだよ」
律は何も言わなかった。
その沈黙が、優しさなのは分かった。
でも今は、それすら苦しかった。
「一ヶ月って、何」
「短すぎる」
言葉が途切れる。
うまくまとまらない。
「そんなので」
「そんなので終わるの、意味わかんない」
律は前を向いたまま、小さく笑った。
笑った、というより、力なく息をこぼしたみたいだった。
「俺も意味わかんない」
その一言が、ひどく本当だった。
きれいごとじゃない。
前向きでもない。
ただ、本当にそうなんだと思った。
意味なんて分からないまま、
時間だけが急に減らされてしまった。
私は泣きながら、律の手を見る。
膝の上で、静かに握られている手。
あの日、屋上で私の手首をつかんだ手。
絵を描いてきた手。
何度も筆を持ってきた手。
その手から、一ヶ月という時間が零れていくみたいで、怖かった。
私は迷って、それからそっと自分の手を伸ばした。
触れていいのか、一瞬だけ分からなかった。
でも律は避けなかった。
私の指先が律の手に触れる。
少し冷えていた。
そのまま、そっと握る。
律が小さく息をつく。
それが、泣きそうな音に聞こえた。
「……親には、さっきちゃんと言われて」
「俺にも説明してくれたけど」
「正直、まだ全然実感ない」
私は黙って聞く。
「なんか、明日も普通に学校行けそうな気するし」
「絵の続きも描けそうな気するし」
そこで律の声が少しだけ止まる。
「でも、そうじゃないらしい」
私はその言葉を聞いて、胸が締めつけられた。
律も、まだ信じられていない。
私と同じで、全然追いついていない。
それなのに、言葉だけが先に現実を作ってしまう。
一ヶ月。
それだけが、残酷なくらいはっきりしていた。
「絵」
私はやっとそれだけ言った。
律がこっちを見る。
「あと少し、だったよね」
律は少しだけ黙ってから、うなずいた。
「うん」
「完成、するよね」
聞きながら、自分でも何を確かめているのか分からなかった。
でも、その絵だけは止まらないでほしかった。
止まってほしくなかった。
律はしばらく黙っていた。
それから、小さく言う。
「したい」
その言葉に、また涙が出そうになる。
したい。
できる、じゃなくて。
したい。
その違いが、あまりにも重かった。
私は律の手を少しだけ強く握った。
「しよう」
声が震える。
「完成させよう」
「絶対」
その言葉が、どこまで本当にできる約束なのか分からなかった。
でも、そのときの私には、そう言うしかなかった。
律は私の手を見たまま、少しだけうなずいた。
「……うん」
それから、少し長い沈黙が落ちた。
もう泣きやんでいるはずなのに、
胸の奥はまだぐちゃぐちゃのままだった。
受け入れたわけじゃない。
分かったわけでもない。
ただ、一ヶ月という言葉だけが、
刃物みたいにそこにある。
公園の街灯の下で、
私たちはしばらく何も言えなかった。
それでも、手だけは離せなかった。
やがて律が小さく言う。
「水瀬に、最初に言いたかった」
私は顔を上げる。
律は前を見たままだった。
「怖かったけど」
「ちゃんと言わなきゃと思って」
その言葉で、胸の奥がまた熱くなる。
最初に。
その順番の重さが、今は痛いくらいうれしかった。
私は涙の残る声で答える。
「……言ってくれてよかった」
本当は、よくなんてない。
こんな話、聞きたくなかった。
でも、律が一人で抱えたままにしなかったことだけは、
たしかにうれしかった。
一緒に苦しいほうがいい、と思ってしまうくらいには、
もう私は律を好きだった。
帰り道、私たちはほとんど話さなかった。
駅までの道は短いのに、ひどく遠く感じる。
さっきまでと同じ街なのに、全部違って見えた。
改札の前で立ち止まる。
前なら、「また明日」と言えていた。
でも今日は、その言葉が喉の奥で止まる。
明日、はある。
たぶん、ある。
なのに、その先が一ヶ月で区切られていることを知ってしまった今、
前みたいに軽く言えなかった。
律もそれは同じだったのか、しばらく何も言わなかった。
それから、静かに言う。
「また連絡する」
私はうなずく。
「……うん」
それだけで精いっぱいだった。
律が改札の向こうへ行く。
私はその背中を見送る。
見えなくなる直前、一度だけ振り返ってくれた。
でも、手は上げなかった。
私も上げられなかった。
家に帰って、部屋に入って、ベッドに座る。
それでもまだ、手の中に律の温度が残っていた。
一ヶ月。
その言葉が、もう何度も頭の中を回っている。
私はスマホを開く。
律からは、まだ何も来ていない。
画面の明かりだけが、暗い部屋の中でやけに白かった。
涙はもう出ない。
そのかわり、胸の奥がずっと痛い。
一ヶ月。
そんな短い時間で、何ができるんだろうと思う。
絵を完成させること。
学校へ行くこと。
一緒に帰ること。
好きだと言うこと。
足りない、と思った。
何を並べても足りない。
私はスマホを握りしめたまま、うつむく。
そのとき、ふと頭の奥に、
あの夢のことがよぎった。
まだ、ただの違和感みたいなものだった。
言葉にもならない、暗い気配。
けれど、確かに何かが近づいている気がした。
一ヶ月。
その残酷な短さを前にして、
私の中で、何かが静かに動き始めていた。


