「へー、綾瀬っていうんだ?」


ふと視線を落とした先に、机に貼られた名前シール。

“綾瀬 奈桜”

縁起の良い“奈”に、華やかな“桜”。
よく似合う名前だと思った。

可憐なその姿に、不思議なくらいしっくりとくる。



「懐かしいな……」


思い出して、ふっと思わず笑いが零れた。
それは誰に届くわけでもなく、静かに消えていく。

テーブルの上に置かれた、一枚の紙。

離婚届。

ペンを持つ手が、わずかに止まる。

3年の結婚生活は、決して無駄なんかじゃなかった。


——そう、思いたい。

不妊で悩んでいた彼女を、自分なりに支えてきたつもりだった。

けれど、それは本当に“寄り添う”ことだったのか。

ただ、向き合うことから目を逸らしていただけじゃないのか。

気持ちは、少しずつすれ違っていった。

ほんの些細な言葉や、沈黙の積み重ねで。

会話は減り、

同じ空間にいても、どこか遠く感じるようになっていった。

——そして、気付いた時には。

彼女は、別の誰かに寂しさを預けていた。

ここに名前を書けば、本当に全てが終わる。

長かった関係も、

積み重ねてきた時間も。

……それでも。

ゆっくりと、ペンを握り直す。

もう、分かっている。

終わらせなきゃいけないのは、

“関係”だけじゃない。

曖昧なまま引き延ばしてきた、この状況そのものだ。

これ以上、誰も傷つけないために。

そして——

自分自身から、逃げないために。

カリ、と乾いた音が静かな部屋で大きく響く。

自分の名前を書き終えた瞬間——

ふっと、肩の力が抜けた。

終わった、というより。

ようやく、区切りをつけた。

そんな感覚だった。

ペンを置いて、しばらくその紙を見つめる。

時計の針の音だけが、無機質に鳴り続けた。


胸の奥にぽっかりと空いたもの。

それが何なのか、分かっているからこそ——

苦しくなる。


.