きみの録音ボタンが消えるまで

 言葉がいったん途切れたあとも、部屋の空気はもう前みたいには冷えなかった。

 何も全部わかったわけじゃない。
 兄がいなくなったことも、二人が止まっていた時間も、そのままだ。今日話したことで急に昔みたいな家に戻れるわけではないし、明日から何もかも自然になるとも思えない。

 それでも今、同じ机に向かって座っていること自体が、昨日までとは少し違って見えた。

 結衣はレコーダーの横に置いた手を見下ろす。
 さっきまで、この小さな機械は“兄の声が入っているもの”としてしか見えていなかった。けれど今は違う。兄の声はたしかに過去のものなのに、その過去の音が、止まっていた母と自分のあいだへ新しい言葉を作ったのだと思えた。

 母はしばらく黙ってから、机の上のレコーダーを見る。
 それから、今度はちゃんと結衣のほうを見た。

「……明日の放送」

 母の声は、まだ少しだけ不安定だった。
 でも、さっきまでとは違っていた。逃げるための声ではなく、これから先へつなぐための声だった。

「聞きたい」

 その一言が、結衣の胸の奥に静かに落ちる。

 母が、兄の声ではなく、自分の声の話をしている。

 結衣は一瞬だけ返事が遅れた。
 母に自分の声を聞きたいと言われることが、こんなに大きいとは思っていなかったからだ。

「……うん」

 やっとそれだけ返すと、母は小さくうなずいた。

 それ以上、何か特別なことを言うわけではない。
 “頑張って”とも、“楽しみにしてる”とも言わない。けれど、その短い言葉の中には、これまでなかった種類のあたたかさがあった。

 母は湯のみを少しだけ動かし、机の端へ寄せる。ほんの何気ない仕草なのに、結衣にはそれが妙にやさしく見えた。

「さっきの……」

 結衣が口を開くと、母が顔を上げる。

「お兄ちゃんの声」
「うん」
「聞いてくれて、よかった」

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。
 もっと別の言い方があったかもしれない。ありがとう、と言うべきだったかもしれない。でも今の結衣に出せたのは、それがいちばん近い言葉だった。

 母はしばらく黙ってから、小さく言った。

「私も」
「……よかった」

 その返事だけで、結衣は胸の奥に張りついていた何かが少しだけほどけるのを感じた。

 兄は戻らない。
 それは、聞いてしまったからこそ前よりはっきりしている。兄の声はレコーダーの中でしか鳴らないし、再生が終われば必ず静けさが戻ってくる。

 でも、その静けさがもう、前みたいに“全部が終わったあとの無音”には思えなかった。
 兄の声は止まっている。止まっているのに、その声を聞いた二人の時間だけが、少しだけ前へ進んでいる。

 それが不思議で、でもすごく確かな感じがした。

 母がふと手を伸ばして、結衣の前に置いてあった湯のみを少しこちらへ寄せた。

「冷めるよ」

 何気ない言葉だった。
 でも、その何気なさが結衣にはうれしかった。

「うん」

 結衣は湯のみを持ち上げる。
 少しぬるくなったお茶の温度が、指先にじんわり残る。

 前と同じ食卓。
 前と同じ湯のみ。
 なのに、そのあいだに置かれる言葉の意味だけが少し変わっていた。

 兄の声は、もう新しくはならない。
 何度再生しても、同じ場所で笑って、同じところで止まる。

 でも今はじめて、その止まった音が、止まっていた母と自分を少しだけ動かしたのだと思えた。

 結衣はレコーダーへもう一度だけ視線を落とす。

 兄がつないだものは、過去じゃなかった。
 いま、同じ机に向かって座っている自分たちのほうだった。