きみの録音ボタンが消えるまで

 音声を止めたあとも、兄の言葉はすぐには消えなかった。

俺が先に言っちゃってるだけかも。

 その一言が、耳の奥に残ったまま、結衣の中でゆっくり形を変えていく。
 最初はただ驚きだった。兄がそんなふうに考えていたなんて、知らなかったからだ。

 でも時間がたつほど、その言葉は別の場所へ沈んでいった。

 結衣はベッドに腰を下ろしたまま、窓の外を見た。カーテンのすきまから入る夜の光が、机の端を白く照らしている。レコーダーはまだ手の中にあったけれど、もう再生する気にはなれなかった。

 代わりに、昔のことばかり思い出した。

 小学校のころ、近所の大きな公園で、同じ学年の子たちと遊んでいたときのことだ。鬼ごっこの途中で、誰かが結衣の足の遅さを笑った。悪意というほど強いものではなかったかもしれない。でも、そのときの結衣には十分痛くて、何か言い返したかったのに、喉がつまって何も出てこなかった。

 兄は少し離れたところにいたのに、いつのまにか間に入っていた。

「そういう言い方、感じ悪いよ」

 兄がそう言った瞬間、相手の子は気まずそうに口を閉じた。
 結衣はその後ろで、ただ立っていた。心臓がどきどきして、情けなくて、でも同時にひどく安心していた。兄がいてくれてよかった、と、そのときはそれしか思わなかった。

 別の日には、学校で係を決めるとき、どうしても前に出たくなくて黙っていたことがある。みんなが「じゃあ朝倉さんで」と言いかけたとき、兄がたまたま教室の前を通りかかって、「結衣、そういうの苦手だから、別のほうがいいと思う」と先生へ言ってくれた。

 あのときも助かった。
 救われたと思った。
 兄は、結衣が傷つく前に、困る前に、いつも少しだけ先回りしてくれた。

 母とのあいだでもそうだった。

 夕食の席で空気が重くなると、兄はすぐに関係ない話を始めた。学校であったくだらないこととか、テレビで見た変なニュースとか、そういうものをぽんと投げて、結衣が何も言わなくても場が流れるようにしてくれた。

 結衣はそのたびに助かっていた。
 兄がいると、言えないままでも何とかなる気がした。

 そこまで思い出してから、結衣は小さく息をつく。

 助けられていた。
 それは、まちがいなく本当だ。

 兄がいなければ、もっと苦しかった場面はいくつもあった。あのころの自分には、兄のそういうやさしさが必要だったのだと思う。
 だから、兄を責めたいわけではない。そんな気持ちはどこにもない。

 けれど今は、その記憶の見え方が少しだけ変わってしまっていた。

 兄が言ってくれる。
 兄が動いてくれる。
 兄が空気を変えてくれる。

 そのたびに結衣は救われて、同時に、自分で言う順番を手放していたのかもしれない。

 守られていた。
 でも、守られたまま、言わなくて済んでいた。

 そのことに気づいた瞬間、胸の奥がひりっとした。

 痛い、と思った。
 兄にされたことが痛かったわけじゃない。
 そうじゃなくて、今になって初めて、自分がどれだけ“自分で言わない側”に慣れてしまっていたのかを知ったことが痛かった。

 結衣は膝の上で手を握る。

 兄がいなくなったあと、自分がこんなにも何も言えなくなったのは、喪失のせいだけじゃないのかもしれない。もともと自分の中にあった弱さが、兄のやさしさの後ろでそのまま残っていたのかもしれない。

 それを思うと、兄がいない今、急に全部を自分でやらなければならなくなったような気がして、少しだけ怖かった。

 でも同時に、兄の音声があのタイミングで残っていた意味も、少しだけわかる気がした。

 兄はたぶん、結衣の代わりでい続けるつもりじゃなかった。
 守りながら、それではだめかもしれないとも思っていた。
 だから迷っていた。
 だから録音の中で、あんなふうにこぼしていた。

 結衣は枕元にレコーダーを置き、今度はそれを見つめるだけにした。

 守られていた記憶は、やさしい。
 でもそのやさしさのすぐ隣に、今の自分へ続く痛みもある。

 兄が代わりに言ってくれた言葉たちは、そのときの結衣を確かに助けた。
 けれど今は、その続きを自分で言わなければいけないところまで来ている。

 結衣は目を閉じる。

 守られていた痛みは、守られていたやさしさのすぐ隣にあった。