きみの録音ボタンが消えるまで

 片づけをしているあいだ、真帆はいつも通りの調子だった。

「先生、あのあと絶対ちょっと気まずかったよね」
「……うん」
「でもまあ、ああいうの、たぶん向こうも慣れてないし」

 明るく言いながら、机の上のメモを重ねたり、録音機のコードを軽くまとめたりしている。
 その声の明るさに、結衣は少しだけ救われていた。さっきの失敗を、これ以上大きくしないでいてくれるからだ。

 けれど、その軽さの奥に、真帆自身も少し疲れている気配があった。

 空き教室の窓の外では、部活帰りの声が遠くに聞こえる。
 教室の中はさっきまでの緊張が薄く残っていて、机を動かす音だけが小さく響いていた。

 真帆はプリントをそろえながら、ふっと息をつく。

「結衣ちゃんってさ」

 名前を呼ばれて、結衣は手を止めた。

 真帆は結衣のほうを見ていたけれど、責める顔ではなかった。むしろ、言うかどうか少し迷って、それでも言った、という顔だった。

「ちゃんと聞いてる感じはするのに」
「……」
「なんか、自分のことは置いたままなんだよね」

 意味が、すぐには入ってこなかった。

 置いたまま。

 結衣はその言葉を頭の中で一度だけくり返す。
 でも意味を考えるより先に、胸の奥のどこかが小さく痛んだ。

 真帆は「あ、いや」と少しだけ慌てたように言葉を足す。

「責めてるとかじゃなくてね」
「なんて言えばいいんだろ……こっちの話は聞いてくれるし、やさしいし、助かってるんだけど」
「結衣ちゃんのほうが、全然見えないっていうか」

 最後のほうは、真帆自身も言い方を探している感じだった。
 うまく言えていない自覚があるからか、声も少しだけ弱くなる。

 けれど、結衣には十分だった。

 ちゃんと聞いてる感じ。
 自分のことは置いたまま。
 全然見えない。

 言葉が一つずつ、遅れて胸の中へ沈んでいく。
 沈んでから、じわじわ痛くなる。

 結衣は何か返そうとした。
 でも、「そんなつもりじゃない」と言うには、自分でもそれがほんとうかどうかわからなかった。
 「ごめん」と言うのも少し違う気がした。
 ごめんと言ってしまったら、それで終わらせてしまう気がしたからだ。

「……私」

 そこまで言って、止まる。

 真帆は急かさなかった。
 ただ、結衣の次の言葉を待つみたいに、少しだけ静かになった。

 でも結衣の中には、きちんとした返事がなかった。

 自分では、迷惑をかけないようにしているつもりだった。
 困らせないように、重くならないように、相手が受け取りやすいぶんだけを出しているつもりだった。

 けれど、それはただ、自分のいちばん大事なところをずっと引っ込めたまま、相手の言葉だけ受け取っていたということなのかもしれない。

 兄のことも。
 母のことも。
 言えないことも。
 苦しいことも。

 ずっと“自分の中だけ”に置いたまま、外へ出していない。

 図星だった。

 だから痛い。

「……うまく、言えなくて」

 やっと出たのは、それだけだった。

 真帆は少しだけ目をやわらげる。

「うん」
「それは、わかる」
「でも、わかんないままだと、こっちもどうしていいか迷うときある」

 その言い方は、きつくなかった。
 でもやさしすぎもしなかった。

 真帆はたぶん、結衣を傷つけたいわけじゃない。
 ただ、ずっと感じていたことが、さっきの失敗のあとで少しだけ口からこぼれたのだ。

 結衣は視線を落とす。
 机の上のプリントの角が、指先に少し当たっている。そんな小さな感覚ばかりが変にはっきりする。

「ごめん」

 結局、その言葉がいちばん先に出た。

 真帆はすぐに首を振った。

「だから、謝ってほしいんじゃないって」
「……うん」
「ただ、結衣ちゃんが何考えてるのか、たまに全然わかんなくなるだけ」

 それは責め言葉ではなかった。
 でも、責められるよりずっと深く結衣に入ってきた。

 わからなくなる。
 全然見えない。

 黙っているだけだと思っていたことが、ちゃんと誰かとのあいだに距離を作っていたのだと、そのとき初めてはっきりわかった。

 結衣は返事ができないまま、小さくうなずく。

 真帆もそれ以上は言わなかった。
 言いすぎたと思ったのかもしれないし、ここから先は結衣が自分で持つしかないと思ったのかもしれない。

 窓の外で、運動部のかけ声が少しだけ大きくなる。
 空き教室の中には、さっきまでとは別の沈黙が落ちていた。

 責められたわけじゃない。
 怒られたわけでもない。

 なのに結衣には、その何気ない言葉のほうが、どんなきつい言い方より深く刺さった。
 図星の言葉は、やさしい声で言われるほうが、逃げ場所がないのだと初めて思った。