その日の放課後、結衣たちは学年主任の先生に短いメッセージをお願いすることになった。
空き教室の窓際に机を一つ寄せて、そこへ小型マイクを置く。外はまだ明るいのに、教室の中は少しだけ陰っていて、録音の前の空気だけが妙に張っている気がした。
「先生、すみません。少しだけお願いします」
真帆が先に声をかけると、学年主任は「緊張するなあ」と笑いながら椅子に座った。
普段は生徒指導で厳しいことも言う先生なのに、こういう場では少し照れたように肩をすくめる。その感じが、結衣には少し意外だった。
本当なら、ここで少し雑談を挟んだほうがいいのかもしれない。
先生が話しやすくなるような、ほんの少しのやわらかい会話。
でも結衣の頭の中には、事前に決めた流れしかなかった。
あいさつ。
録音開始。
メッセージ。
終了。
順番を間違えないことだけで、意識がいっぱいになる。
録音機を持つ手の中で、指先が冷えていく。
結衣はマイクの位置を確認してから、小さくうなずいた。
「……では、お願いします」
自分の声が、思ったより硬い。
先生はそれに少しだけ表情を整えてから、前を向いた。
「えーと、みなさんへ。毎年この時期になると、ちゃんと――」
そこで、先生が言葉を探すように目を上げた。
ほんの一瞬だった。
でもその一瞬の間には、たぶん予定していた言葉ではない何かが入ろうとしていた。先生自身の思いとか、ただ用意されたメッセージではない別の何かが。
結衣はそれを待てなかった。
「あ、すみません、もう少し短めで……」
言った瞬間、自分の声が教室の空気をひどく薄くした気がした。
先生は目を丸くして、それからすぐに「ああ、そうか」と笑った。
でも、その笑い方はさっきとは少し違っていた。困らせないように自分で引き取った笑い方だった。
「じゃあ、改めて。みなさん、いつもありがとう。元気に過ごしてください」
今度の言葉は、きれいにまとまっていた。
短くて、誰にも困らせない。
たぶん“正しい録音”だった。
けれど結衣には、さっき先生が言いかけて飲み込んだ何かのほうが、ずっと強く残った。
録音が終わる。
停止ボタンを押すとき、指が少しだけ遅れた。
「ありがとうございました」
結衣が言うと、先生は「大変だな、これ」とやさしく笑って立ち上がる。責めるような言い方ではない。むしろ気をつかってくれているのがわかる。だから余計に、胸の奥が痛んだ。
先生が教室を出たあと、しばらく誰もすぐには何も言わなかった。
沈黙を破ったのは真帆だった。
「いやー、先生も緊張してたね」
明るく言って、わざと空気を軽くする。
フォローなのだとすぐにわかった。
「……うん」
結衣はそれしか返せない。
律は波形を確認しながら、「音は大丈夫」とだけ言った。
それもまた、必要以上に触れないための言葉だとわかる。
けれど結衣の中では、さっきの一瞬が何度も繰り返されていた。
先生は、たぶんもう少し自分の言葉を言おうとしていた。
なのに結衣は、“ちゃんと進めること”を優先して、その間を切ってしまった。
録音係なのに。
人の声を受け取る役なのに。
実際に結衣が見ていたのは、相手の顔でも、言葉の揺れでもなく、自分の中の段取りばかりだった。
「ごめん」
気づけば、声が出ていた。
真帆が首を振る。
「いや、謝るほどじゃないって」
「でも……」
「次、やり方変えればいいし」
その言い方はやさしい。
やさしいのに、結衣の胸にはうまく落ちてこない。
謝りたい気持ちと、自分がうまくできなかった情けなさと、先生のあの一瞬を切ってしまった後悔が、全部一緒になって喉の奥に残っている。
録音はできた。
形式としては、何も間違っていない。
それなのに結衣には、ひとつもちゃんとできた気がしなかった。
目の前の人の言葉より、自分の焦りのほうがずっと大きかったことが、何より苦しかった。
空き教室の窓際に机を一つ寄せて、そこへ小型マイクを置く。外はまだ明るいのに、教室の中は少しだけ陰っていて、録音の前の空気だけが妙に張っている気がした。
「先生、すみません。少しだけお願いします」
真帆が先に声をかけると、学年主任は「緊張するなあ」と笑いながら椅子に座った。
普段は生徒指導で厳しいことも言う先生なのに、こういう場では少し照れたように肩をすくめる。その感じが、結衣には少し意外だった。
本当なら、ここで少し雑談を挟んだほうがいいのかもしれない。
先生が話しやすくなるような、ほんの少しのやわらかい会話。
でも結衣の頭の中には、事前に決めた流れしかなかった。
あいさつ。
録音開始。
メッセージ。
終了。
順番を間違えないことだけで、意識がいっぱいになる。
録音機を持つ手の中で、指先が冷えていく。
結衣はマイクの位置を確認してから、小さくうなずいた。
「……では、お願いします」
自分の声が、思ったより硬い。
先生はそれに少しだけ表情を整えてから、前を向いた。
「えーと、みなさんへ。毎年この時期になると、ちゃんと――」
そこで、先生が言葉を探すように目を上げた。
ほんの一瞬だった。
でもその一瞬の間には、たぶん予定していた言葉ではない何かが入ろうとしていた。先生自身の思いとか、ただ用意されたメッセージではない別の何かが。
結衣はそれを待てなかった。
「あ、すみません、もう少し短めで……」
言った瞬間、自分の声が教室の空気をひどく薄くした気がした。
先生は目を丸くして、それからすぐに「ああ、そうか」と笑った。
でも、その笑い方はさっきとは少し違っていた。困らせないように自分で引き取った笑い方だった。
「じゃあ、改めて。みなさん、いつもありがとう。元気に過ごしてください」
今度の言葉は、きれいにまとまっていた。
短くて、誰にも困らせない。
たぶん“正しい録音”だった。
けれど結衣には、さっき先生が言いかけて飲み込んだ何かのほうが、ずっと強く残った。
録音が終わる。
停止ボタンを押すとき、指が少しだけ遅れた。
「ありがとうございました」
結衣が言うと、先生は「大変だな、これ」とやさしく笑って立ち上がる。責めるような言い方ではない。むしろ気をつかってくれているのがわかる。だから余計に、胸の奥が痛んだ。
先生が教室を出たあと、しばらく誰もすぐには何も言わなかった。
沈黙を破ったのは真帆だった。
「いやー、先生も緊張してたね」
明るく言って、わざと空気を軽くする。
フォローなのだとすぐにわかった。
「……うん」
結衣はそれしか返せない。
律は波形を確認しながら、「音は大丈夫」とだけ言った。
それもまた、必要以上に触れないための言葉だとわかる。
けれど結衣の中では、さっきの一瞬が何度も繰り返されていた。
先生は、たぶんもう少し自分の言葉を言おうとしていた。
なのに結衣は、“ちゃんと進めること”を優先して、その間を切ってしまった。
録音係なのに。
人の声を受け取る役なのに。
実際に結衣が見ていたのは、相手の顔でも、言葉の揺れでもなく、自分の中の段取りばかりだった。
「ごめん」
気づけば、声が出ていた。
真帆が首を振る。
「いや、謝るほどじゃないって」
「でも……」
「次、やり方変えればいいし」
その言い方はやさしい。
やさしいのに、結衣の胸にはうまく落ちてこない。
謝りたい気持ちと、自分がうまくできなかった情けなさと、先生のあの一瞬を切ってしまった後悔が、全部一緒になって喉の奥に残っている。
録音はできた。
形式としては、何も間違っていない。
それなのに結衣には、ひとつもちゃんとできた気がしなかった。
目の前の人の言葉より、自分の焦りのほうがずっと大きかったことが、何より苦しかった。
