きみの録音ボタンが消えるまで

 夜、部屋に戻ってすぐ、机の上に置いたスマホが短く震えた。

 結衣は制服の袖を直しかけた手を止める。
 画面を見ると、律からのメッセージだった。

少しだけ拾えた。たぶん一部だけ。

 その一文を読んだ瞬間、喉の奥が急に乾いた。

 壊れたファイルのことだと、すぐにわかる。
 結衣は画面を見たまま動けなくなる。母に拒まれたことも、兄の部屋の前で立ち止まっていた母の背中も、真帆が録音の途中で言葉をなくした顔も、一瞬だけ全部遠のいた。

 少しだけ拾えた。

 たったそれだけの知らせなのに、心臓が早くなる。

 指先が落ち着かないまま、結衣は短く返信した。

ありがとう

 もっと何か打とうとして、やめる。
 今はそれ以上の言葉が出てこない。

 机の引き出しからレコーダーを取り出す。
 小さな機械の冷たさが、手のひらにじかに伝わる。部屋の明かりはついているのに、液晶の淡い光だけが妙に強く見えた。

 結衣は椅子にも座らず、その場で再生ボタンを押した。

 最初は、ざらついたノイズしか聞こえなかった。

 砂を薄くこするような音。
 ところどころ何かの端が引っかかるみたいな不安定な気配。
 結衣は無意識に息を止めていた。

 もしかしたら何も聞こえないかもしれない。
 期待したぶんだけ、ただの雑音で終わるかもしれない。

 そう思いかけた、そのときだった。

「結衣は――」

 兄の声だった。

 はっきりと、そう聞こえた。

 結衣の肩が大きく揺れる。
 レコーダーを持つ手が少しずれて、あわてて握り直す。

 今、自分の名前が入っていた。
 間違いようがない。聞き間違いでもない。

「結衣は――」

 その先は、またノイズに飲まれていく。
 言葉の輪郭だけが少し残って、肝心の続きは崩れたままだ。

「……っ」

 声にならない息が漏れる。

 結衣はすぐに巻き戻した。
 もう一度。
 もう一度だけ確かめたくて、再生を押す。

 ざらついた音。
 短い空白。
 そして兄の声。

「結衣は――」

 やはりそこまでしか聞こえない。

 でも、その四文字だけで十分すぎるほどだった。

 兄は自分に向かって何かを言おうとしていた。
 名前を呼ぶだけじゃなく、その先に何か続けようとしていた。

 結衣はレコーダーを胸の近くまで引き寄せる。
 手のひらが熱くなっているのに、指先だけが冷たい。

 何を言おうとしたんだろう。
 どう続いたんだろう。

 結衣は頭の中で勝手にいくつもの続きを作りかける。

 結衣は、ちゃんとできる。
 結衣は、大丈夫。
 結衣は――

 どれも兄が言いそうな気がして、どれも勝手すぎる気がした。

 三回目。
 四回目。

 何度聞いても結果は同じだ。
 同じなのに、聞くたびに「結衣は」の部分だけが、少しずつ濃くなっていくように思えた。

 その先が聞こえないことが、逆に結衣の中で意味を大きくしてしまう。

 母に拒まれたことも、真帆の録音に胸が詰まったことも、その瞬間だけは全部遠くなる。
 代わりに、壊れた音声の続きだけが、目の前に大きくぶら下がる。

 ここにある。
 私への言葉が、ここにある。

 そう思った。

 思ったというより、そう信じたかったのかもしれない。
 でもその違いは、そのときの結衣にはもうほとんどなかった。

 兄が自分に何かを残していた。
 まだ最後までは聞けないけれど、それだけはもう疑えなかった。

 兄の声は、過去の中にあるはずなのに、今の結衣を強く引っぱる。
 何を言うつもりだったのか知りたい。
 その先に、自分がどうしたらいいのかがある気がしてしまう。

 レコーダーを見つめたまま、結衣は小さく息を吐いた。

 真帆が言っていた。
 ありがとうって、言うって決めた途端、難しくなると。

 母は、兄の声を聞くことさえできなかった。
 自分も、言いたいことがあるのに、ちゃんと口にできない。

 だからこそ、兄が残したかもしれない言葉が、今は何より確かなものに見えてしまう。

 たった四文字しか聞けていないのに。
 まだ何もわかっていないのに。

 それでも結衣はもう、その先を探さずにはいられなかった。

 兄が自分に何かを残していたと信じた瞬間、結衣の心はまた、強く過去のほうへ引かれていった。