きみの録音ボタンが消えるまで

 翌日の放課後、準備室の空気はいつもより少しやわらかかった。

 昨日までより録音の流れに慣れてきたせいか、真帆も律も、機材を前にしていても必要以上に構えた様子を見せない。結衣も、まだ緊張はするものの、最初の日みたいに録音機を持つだけで呼吸が浅くなることはなくなっていた。

 何人かの録音を終えたあと、真帆がプリントをぱらぱらとめくりながら言った。

「じゃ、次、私やる」

 結衣は思わず顔を上げた。

「……真帆が?」
「その言い方なんか失礼じゃない?」

 真帆は笑ったけれど、いつもの軽さより少しだけ力が入っている気がした。

「誰に?」
「おばあちゃん」

 答えは短かった。
 でも、その二文字が出た瞬間、真帆の顔つきがわずかに変わるのを結衣は見た。

「最近ちょっと体調よくないらしくて。電話では元気そうなんだけど、まあ、今のうちに言っとこうかなって」

 言い方はあくまで軽い。
 けれど、その軽さの下に、ちゃんと本気があるのがわかった。

 真帆はマイクの前に立つ。
 さっきまで他の子の録音を手伝っていたときと同じ場所なのに、自分の番になると急にその前の空気が変わる。結衣は録音機を持ちながら、その変化を前にも何度か見てきた。けれど真帆にそれが起こるのを見るのは、少しだけ意外だった。

「いつでもいいよ」

 そう言いながら、結衣は自分の声が前より少しだけ自然に出たことに気づく。

「ありがと。……よし」

 真帆は小さく深呼吸をして、結衣が録音ボタンを押すのを見た。

 赤いランプがつく。

「えっと……おばあちゃん、いつも、お菓子送ってくれてありがとう」

 そこまで言って、真帆は吹き出した。

「あ、待って無理。なんかこれ、思ったより本気っぽくなる」

 結衣は停止ボタンを押す。
 真帆は自分の額を手のひらで押さえながら、「やば」と笑っている。笑っているけれど、耳が少し赤い。

「録ると急に重くなるね」
「……うん」
「朝倉さん、その“うん”に今すごい実感こもってた」

 真帆が少しだけ笑って、もう一度立ち位置を直した。

「もう一回いく」

 二回目。
 真帆は最初よりまっすぐ前を見て、でも一言目から少し声が固かった。

「おばあちゃん、いつもありがとう。あと、その……」

 そこで止まる。

 結衣は何も言わない。
 真帆の視線が一瞬だけ泳いで、それから苦笑いが浮かぶ。

「ごめん、もう一回」
「うん」

 三回目も、途中で止まった。
 今度は「いつも」のあとで言葉が続かない。真帆は自分で録音を切って、「私こんな言えない人だっけ」と小さく笑った。

 でも、その笑いは少しずつ薄くなっていく。

 準備室の中が、前より静かになる。
 律は奥の机で波形を確認しながら、何も言わずにその静けさを崩さない。結衣も、録音機を持ったまま、ただ真帆を見ていた。

「……四回目で最後にする」

 真帆はそう言って、もう一度深く息を吸う。
 その横顔には、さっきまでの明るさとは違う、どうにかして言葉を渡したい人の顔があった。

 結衣は録音ボタンを押す。

「おばあちゃん」

 今度は、最初の呼びかけが前より小さかった。

「いつも、電話で元気なふりしてるけど……ほんとは会いたいし」
「また……ちゃんと、会いに行くから」

 最後のほうで、真帆の声が少しだけ揺れた。
 泣きそうなのをこらえたのか、笑ってごまかそうとしたのか、たぶんその両方だった。

 そこで真帆は口を閉じる。
 準備室には小さな機械音と、真帆が呼吸を整える音だけが残った。

 結衣はしばらく待ってから、そっと停止ボタンを押した。

「……ごめん。なんか、思ったより無理だった」

 真帆はそう言って目元をこすった。けれど、その顔はただ失敗した人の顔ではなかった。言えなかった悔しさと、それでも少しだけ言えた手応えが混ざった、変な表情だった。

 結衣はすぐには返事ができなかった。
 何を言えばいいのか、やっぱりまだわからない。

 でも、急がせないほうがいいことだけはわかった。

 少し待っていると、真帆が自分から小さく笑った。

「ありがとうってさ」

 その声は、さっきまでよりずっと素の真帆の声だった。

「簡単な言葉なのに、言うって決めた途端、めっちゃ難しくなるね」

 結衣はうなずく。

 それしかできなかった。
 でも、その一回のうなずきは、前よりずっとちゃんと真帆のほうを向いていた。

 言えないのは、弱いからじゃないのかもしれない。
 大事な相手だからこそ、言葉は喉のところで急に重くなる。

 真帆のつまずく声を聞きながら、結衣は初めて、“言えない”ということを少しだけやさしく見られた。