きみの録音ボタンが消えるまで

 その夜、結衣は机の上にレコーダーを置いたまま、しばらく手を伸ばせずにいた。

 昼間、律と交わした短い会話がまだ胸のどこかに残っている。
 言いたいことがあるのに、うまく言えない。
 それを口にしただけで少し息がしやすくなったのに、部屋へ戻って一人になると、また別の重さが胸の奥へ戻ってきた。

 兄の声を聞きたい。
 でも同時に、聞いた先でまた何か変わってしまう気もする。

 結衣は椅子の背にもたれたまま目を閉じ、それからゆっくりレコーダーを手に取った。

 再生ボタンを押す。

 最初はノイズとも呼べないような小さな音だけだった。
 服の袖が擦れる気配。
 どこかで椅子がわずかに鳴る音。
 息を吸う、ごく短い間。

 そして、兄の声がした。

「結衣」

 たった二文字だった。

 それだけなのに、結衣の体はすぐに反応した。
 心臓が強く一度打って、指先にまでその振動が走る。

 兄が自分の名前を呼ぶ声は、何度も聞いたことがある。
 朝、いつまでも起きないときの少し呆れた呼び方。
 お菓子を勝手に食べたときの、笑いをこらえた呼び方。
 何かを見せたいときの、軽く弾むような呼び方。

 でも今、イヤホンの向こうで聞こえたそれは、どれとも違った。

 軽くなかった。
 急かしてもいなかった。
 ただまっすぐ、少しだけ慎重に呼んでいる声だった。

 結衣は息を詰めたまま、続きを待つ。

「結衣――」

 そこで、ぶつっと音が切れた。

 結衣は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
 液晶の表示だけが静かに進んで、やがて止まる。
 それで本当に終わりなのだと気づいたとき、胸の奥に遅れて強い空白が落ちた。

「……え」

 自分でも聞こえないくらい小さな声が漏れる。

 結衣はすぐに巻き戻しを押した。
 もう一度、最初から。

 服の擦れる音。
 短い息。
 そして、

「結衣」

 また、兄が名前を呼ぶ。
 その呼び方のやさしさに、今度は最初より深く胸をつかまれる。

「結衣――」

 そこで終わる。

 三回目も、四回目も同じだった。

 その先に何があるのか。
 何を言おうとしたのか。
 どうしてそこだけ残っていないのか。

 たった名前を呼ばれただけなのに、結衣はもう、その続きなしではいられない気がした。

 兄が自分を呼ぶ声の中には、何か大事なものが含まれているように思えてしまう。
 実際には何もわからない。ただ名前だけだ。
 それなのに、意味を探したくなる。

 レコーダーを握る手に力が入る。
 兄はこのあと、何を言うつもりだったのだろう。
 何を伝えたかったのだろう。

 昼間、律が言っていた壊れたファイルのことが頭をよぎる。

 あれかもしれない。
 あの読めないファイルの中に、この続きがあるのかもしれない。

 そう思った瞬間、胸の奥に期待と怖さがいっぺんに広がった。

 聞きたい。
 でも、聞いてしまったら戻れない気もする。
 何が入っていても、もう今までみたいには思えなくなるだろうという予感だけが、はっきりしていた。

 結衣はイヤホンを外しかけて、また耳に戻す。
 結局、もう一度だけ再生した。

「結衣」

 それは、叱る声でも、急かす声でもない。
 ただ、結衣に向けてまっすぐ差し出された声だった。

 そのことが、たまらなく苦しかった。

 名前を呼ばれただけで、結衣はもう、その続きを探さずにはいられなくなっていた。