翌日の放課後、録音データを渡しに準備室へ行くと、中には律しかいなかった。
窓の外はもう薄暗くなっていて、教室の白い壁も昼間より少しだけ冷たく見える。机の上ではノートパソコンの画面が淡く光っていて、横に置かれた機材の小さなランプが規則正しく点滅していた。
「そこ、置いといて」
律は画面を見たまま言った。
結衣はUSBメモリを机の端に置き、「……うん」と小さく返す。
本当なら、それで部屋を出るつもりだった。
用事はそれだけだし、二人きりの沈黙に慣れているわけでもない。けれど、その日はなぜか、すぐに扉のほうへ足が向かなかった。
律がキーボードを打つ音だけが、部屋の中に小さく響く。
気まずい、というほどではない。
でも、帰るきっかけを失うには十分なくらいの静けさだった。
結衣は鞄の持ち手を指先で握り直す。
昨日の兄の音声が、まだ頭のどこかに残っていた。何度も言い直す兄の声。うまく言えないまま、それでも話そうとする声。
気づけば、口が先に動いていた。
「……言いたいこと、あるのに」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。
律の手が止まる。
結衣はそこで初めて、自分がちゃんと声にしてしまったことに気づく。胸の奥が一気に熱くなった。
もう引っ込められない、と思って、結衣は視線を落としたまま続ける。
「あるのに、うまく言えないことって……あるよね」
少し間があった。
律は振り向きもしないまま、でもきちんと聞いている声で答えた。
「ある」
それだけだった。
“みんなそうだよ”とも、“どうしたの”とも言わない。慰めるふうでも、踏み込むふうでもなく、ただ当たり前のことみたいに置かれた一言だった。
結衣はそれだけで、少しだけ呼吸がしやすくなるのを感じた。
「……そっか」
自分でも情けないくらい、小さな返事になる。
律は画面を切り替えながら言った。
「だから録るのかも」
「え?」
結衣が顔を上げると、律はようやく少しだけこちらを見た。
「口だと無理でも、録音なら一回止まれるし」
「……」
「言い直せるし。相手の顔、見なくていいし」
その言葉に、結衣はすぐ返事ができなかった。
兄のレコーダーにだけ本音を言える自分のことを、少しだけ見透かされた気がしたからだ。もちろん、律は何も知らないはずだ。ただ録音の仕組みの話をしているだけなのに、言葉が思ったより深いところに落ちてくる。
相手の顔を見なくていい。
言い直せる。
一回止まれる。
それはそのまま、結衣がずっとレコーダーに向かってやってきたことだった。
「……そうかも」
やっとそれだけ言うと、律は小さくうなずいた。
「別に、ちゃんと言えなくてもさ」
「録ってる時点で、言おうとはしてるし」
その言い方は軽くも重くもなかった。
でも、結衣にはその言葉が妙に残った。
ちゃんと言えなくても。
言おうとはしてる。
兄の音声も、そうだったのかもしれない。
何度も言い直して、完成していなくて、それでも黙ったままにはしない声。
結衣は机の上の小さなランプを見つめる。
赤でも青でもない、淡い緑の光が一定の間隔で点いたり消えたりしていた。
「朝倉」
不意に名前を呼ばれて、結衣は肩を揺らした。
「はい」
「昨日のファイル、少しずつ見てる」
壊れた音声のことだとすぐにわかった。胸の奥が小さく跳ねる。
「まだちゃんとはわかんないけど」
「……うん」
「進んだら言う」
結衣はうなずく。
それ以上は何も聞かなかった。聞けなかったとも言える。今はその約束だけで十分な気がしたからだ。
沈黙が戻る。
でもさっきまでの沈黙とは少し違っていた。
全部を話したわけでもない。兄のことも、自分が何に困っているのかも、ちゃんと説明したわけではない。
それでも、“言いたいことがあるのに、うまく言えない”と口にしただけで、胸の中に少しだけ余白ができた気がした。
「じゃあ……私、戻るね」
結衣がそう言うと、律は「うん」とだけ返した。
扉を開ける直前、結衣はほんの少しだけ立ち止まる。
振り返ることはしなかったけれど、さっき自分が口にした言葉を、もう一度心の中でなぞった。
言えないことがある。
それを認めるだけで、言葉は少しだけ外へ出やすくなるのかもしれなかった。
窓の外はもう薄暗くなっていて、教室の白い壁も昼間より少しだけ冷たく見える。机の上ではノートパソコンの画面が淡く光っていて、横に置かれた機材の小さなランプが規則正しく点滅していた。
「そこ、置いといて」
律は画面を見たまま言った。
結衣はUSBメモリを机の端に置き、「……うん」と小さく返す。
本当なら、それで部屋を出るつもりだった。
用事はそれだけだし、二人きりの沈黙に慣れているわけでもない。けれど、その日はなぜか、すぐに扉のほうへ足が向かなかった。
律がキーボードを打つ音だけが、部屋の中に小さく響く。
気まずい、というほどではない。
でも、帰るきっかけを失うには十分なくらいの静けさだった。
結衣は鞄の持ち手を指先で握り直す。
昨日の兄の音声が、まだ頭のどこかに残っていた。何度も言い直す兄の声。うまく言えないまま、それでも話そうとする声。
気づけば、口が先に動いていた。
「……言いたいこと、あるのに」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのかわからなかった。
律の手が止まる。
結衣はそこで初めて、自分がちゃんと声にしてしまったことに気づく。胸の奥が一気に熱くなった。
もう引っ込められない、と思って、結衣は視線を落としたまま続ける。
「あるのに、うまく言えないことって……あるよね」
少し間があった。
律は振り向きもしないまま、でもきちんと聞いている声で答えた。
「ある」
それだけだった。
“みんなそうだよ”とも、“どうしたの”とも言わない。慰めるふうでも、踏み込むふうでもなく、ただ当たり前のことみたいに置かれた一言だった。
結衣はそれだけで、少しだけ呼吸がしやすくなるのを感じた。
「……そっか」
自分でも情けないくらい、小さな返事になる。
律は画面を切り替えながら言った。
「だから録るのかも」
「え?」
結衣が顔を上げると、律はようやく少しだけこちらを見た。
「口だと無理でも、録音なら一回止まれるし」
「……」
「言い直せるし。相手の顔、見なくていいし」
その言葉に、結衣はすぐ返事ができなかった。
兄のレコーダーにだけ本音を言える自分のことを、少しだけ見透かされた気がしたからだ。もちろん、律は何も知らないはずだ。ただ録音の仕組みの話をしているだけなのに、言葉が思ったより深いところに落ちてくる。
相手の顔を見なくていい。
言い直せる。
一回止まれる。
それはそのまま、結衣がずっとレコーダーに向かってやってきたことだった。
「……そうかも」
やっとそれだけ言うと、律は小さくうなずいた。
「別に、ちゃんと言えなくてもさ」
「録ってる時点で、言おうとはしてるし」
その言い方は軽くも重くもなかった。
でも、結衣にはその言葉が妙に残った。
ちゃんと言えなくても。
言おうとはしてる。
兄の音声も、そうだったのかもしれない。
何度も言い直して、完成していなくて、それでも黙ったままにはしない声。
結衣は机の上の小さなランプを見つめる。
赤でも青でもない、淡い緑の光が一定の間隔で点いたり消えたりしていた。
「朝倉」
不意に名前を呼ばれて、結衣は肩を揺らした。
「はい」
「昨日のファイル、少しずつ見てる」
壊れた音声のことだとすぐにわかった。胸の奥が小さく跳ねる。
「まだちゃんとはわかんないけど」
「……うん」
「進んだら言う」
結衣はうなずく。
それ以上は何も聞かなかった。聞けなかったとも言える。今はその約束だけで十分な気がしたからだ。
沈黙が戻る。
でもさっきまでの沈黙とは少し違っていた。
全部を話したわけでもない。兄のことも、自分が何に困っているのかも、ちゃんと説明したわけではない。
それでも、“言いたいことがあるのに、うまく言えない”と口にしただけで、胸の中に少しだけ余白ができた気がした。
「じゃあ……私、戻るね」
結衣がそう言うと、律は「うん」とだけ返した。
扉を開ける直前、結衣はほんの少しだけ立ち止まる。
振り返ることはしなかったけれど、さっき自分が口にした言葉を、もう一度心の中でなぞった。
言えないことがある。
それを認めるだけで、言葉は少しだけ外へ出やすくなるのかもしれなかった。
