レコーディング作業は昼を挟んで、結局日がすっかり落ちるまで続いた。
といっても、地下であるスタジオから、地上の空の移り変わりは確認できない。
その日は十七テイク録って、新田さんが「今日はここまで」と言ったのが夜の八時だった。
サクラがブースから出てきて、柚子に「ありがとうございます。お疲れ様でした」と頭を下げた。
目の下に薄く疲労の色があったけど、声は明るかった。
「どうでしたか」
「良かったです。私はとても好き」
本心からの言葉だ。
A&Rとしての言葉じゃなくて、一人の聴き手としての。
その言葉に、サクラが花開くように微笑む。
「野口さんからそう言ってもらえると、嬉しい」
彼女の明るい声を聞いて、今日一日スタジオにいた意味があると思った。
新田さんとの、今後のスケジュールに関する細かい調整が残っていて、柚子がスタジオを出たのは午後九時過ぎだ。
マスタリングのスケジュール、レーベルへの提出フォーマット、来月のプロモーション会議に向けた資料。
話しながらスマートフォンのメモを更新して、会社に戻るか迷って、結局戻らないことにした。
メールは帰り道で返せるし、と言い訳をしながら。
代官山から中目黒まで、歩いた。
十分くらいの道のりで、駒沢通りのゆるやかな坂を下りていく途中で住宅街のある脇道に逸れて、川沿いに出る。
この時間の中目黒は好きだ。
おしゃれな顔だけではなくて、ただそこに在る街の顔になっている。
歩道橋の下には、猫の餌やりにきているおばあさんの背中が見えた。
マンション前に辿り着き、エントランスに向かおうとして、足が止まる。
疲れている。
眠れる気がしない。
駅前の整体に寄ろうかと考えスマホを手にした瞬間、通りを挟んだ向かいの建物の前に、地下へと続くLAMPの看板が見えてしまった。
扉を開けると、マスターが「珍しいね、この時間に来るの」と言った。
結局、今日も寄ってしまった。
ここまでくると、LAMPは第二の我が家と言えそうな気がする。
柚子が顔を覗かせるにしては、早すぎる時間だ。
いつもの常連はまだ来ていなくて、カウンターには一人だけ先客がいた。
九条だった。
ノートを広げて、何か書いている。
柚子が入ってきた気配に顔を上げて、少し目を細めた。
「早いですね」
「今日はスタジオ仕事だったので直帰しちゃいました」
マスターが何も聞かずにカモミールティーを出してくれた。
しばらく黙っていた。
九条はノートに何かを書き続けていて、柚子はカップを両手で包む。
この空間での沈黙が苦じゃないのは、最初の頃から変わらない。
マスターは寡黙な人ではないけれど、それぞれの客が今、その瞬間に求めているモノがわかるようだ。
「スタジオって、レコーディングですか」
九条が手を止めずに聞いた。
「そうです。担当してるアーティストさんの」
「うまくいきましたか」
「……今日はそこそこ」
そこそこ、という言葉を使ったのは久しぶりだった。
会社では「問題ありません」か「対応します」しか言わない。
「ディレクターさんが妥協しない人で」
「それは良いことじゃないですか」
「とっても良いことだとは思います。でも来月頭にマスター上げなきゃいけないのに、今日だけで十七テイク録ったので」
九条がペンを置いた。
「十七テイクか……」
「多いですよね。でもその人、本当に耳が良くて。妥協したくない気持ちが分かるから強く言えなくて」
「野口さんはアーティストの味方なんですか、レーベルの味方なんですか」
九条の素朴な疑問に、柚子は考えながら答える。
「どちらでもあって、どちらでもない、というのが正直なところです。どっちかの味方になった瞬間に、A&Rとしては終わる気がするので。どちらかに傾き過ぎないように、天秤を必死で調整している感じです」
「難しい仕事ですね」
「好きじゃなかったら絶対できない、かなあ」
そう答えながらも、疲労の所為か、ため息が零れてしまう。
「野口さんが担当してるアーティスト、どんな曲を作るんですか」
仕事の細かい話をここでするつもりはなかった。
LAMPのルールとして、というより、切り替えができなくなるのが嫌なのだ。
この場所は、日常から非日常へと自分の存在を変質させる場所。
それなのに九条の落ち着いた声を聞いていると、なぜか話したい気分になる。
「二十三歳の女の子なんですけど、歌い方に変な欲がないんですよ。うまく聴かせようとしない。ただそこに在る、みたいな歌い方で」
「在る、か」
「声で何かを証明しようとしていない感じ、というか。それが聴いてて心地よいんです」
「今日録った曲、どんな感じですか」
「ミディアムテンポで、歌詞がすごく日常的なんです。お腹が空いたとか、傘を忘れたとか、そういうことしか歌ってないのに、なぜか泣けてくる曲で」
「なぜ泣けるんだと思いますか」
柚子はしばらく考えた。
「本当のことを歌っているから、じゃないですかね。背伸びしていない言葉って、なぜか体に入ってくる気がして」
九条は何も言わなかった。
ただ、柚子の話を聞いているだけだ。
「A&Rをやってると、たまにそういう曲に出会うんです。理屈じゃなくて体に入ってくる曲。最初にそのデモ音源を聴いたとき、これだと思って。うまく説明できないんですけど」
「うん、説明できなくていいと思います」
九条の声は、どこまでも静かだった。
「説明できる感動より、できない感動の方が本物のことが多いので」
断言するような台詞に、柚子は確信してしまう。
この人は本当に、音楽が好きなんだと思った。
そして、なんらかの形で関わっている。
「九条さん、やっぱり音楽やってる人ですよね」
「……なんでそう思いますか」
「だって、感動の話し方が、作る側の人間の感覚ですもん」
九条は答えなかった。
少し間があって「聴く方が好きです」とだけ言った。
それ以上、彼から何か聞き出すのは、柚子自身が嫌だなと感じ、会話は切り上げる。
マスターが夜メニューの定番であるラザニアの皿を、ちょうどのタイミングで柚子の前にことりと置いた。
