氷の令嬢は、最強(?)総長の『子守役』を命じられる

一ノ瀬会長が去った後の資料室は、心臓の音が聞こえそうなほど静まり返っていた。
 さっきまで私を庇うように握られていた右手が、離れた今もじんじんと熱い。
「……龍崎くん。さっきの、何?」
「何って……、あいつがムカつくことばっかり言うから……」
 龍崎は窓の外を向き、真っ赤になった耳を隠すように首をすくめた。
 女子が怖い、触れるなんてとんでもないと言っていたはずの彼が、私を奪い返すように引き寄せたあの瞬間。
 ……正直、頭が真っ白になった。
「『利用されてもいい』なんて、バカじゃないの? 損するのはあんたよ」
「いいんだよ。実花が俺の秘密を守ってくれてるのも、俺を鍛えようとしてるのも、全部……俺のためだって、わかってるから」
 彼はゆっくりとこちらを振り返った。夕闇に溶けそうな、切ないほど真っ直ぐな瞳。
「……俺さ。実花といる時だけ、自分が『マシな男』になれる気がするんだ。あいつに言われたくらいで、揺らいだりしねえよ」
 不意打ちだった。
 いつもは冷たく突き放しているはずなのに、私の心にストンと彼の言葉が落ちてくる。
 私は動揺を隠すように、カバンから救急セットを取り出した。
「……何よ、その顔。さっき、一ノ瀬会長の手を振り払った時に擦りむいたんでしょ。見せなさい」
「えっ、あ、これくらい平気……」
「黙って。……はい、手、出して」
 渋々差し出された彼の大きな手。
 消毒液を染み込ませた綿棒を当てると、龍崎が「くっ……」と息を呑む。
 至近距離。彼の体温と、かすかな石鹸の香りが鼻をくすぐる。
「……ねえ、実花」
「何?」
「……一ノ瀬のこと、どう思ってるんだ? あいつ、お前のこと、本気で……」
 その声は、不安そうに揺れていた。
 私は彼の手の甲に絆創膏を貼り終えると、わざと強く、その手を握りしめた。
「……あんな執着心の塊みたいな男、私のタイプじゃないわよ」
「じゃあ、どんなのがタイプなんだ……?」
 顔を上げると、鼻先が触れそうなほど近くに龍崎の顔があった。
 彼は震えていた。けれど、それは「恐怖」の震えじゃない。
 私という存在を、必死に自分の中に留めようとする「熱」の震えだ。
「……秘密。教えるわけないでしょ」
 私はパッと手を離し、逃げるようにカバンを掴んだ。
 背中越しに、「ずるいぞ!」と彼が叫ぶのが聞こえる。
 廊下に出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
 一ノ瀬会長の不気味な独占欲と、龍崎が見せた不器用な誠実さ。
 私の心は、どちらの「本気」にも振り回され始めていた。
(……バカね。あんなの、ただの契約相手なのに)
 胸の奥で、経験したことのない甘い痛みが、トクンと跳ねた。