龍崎の足音が完全に消え、放課後の校舎は不気味なほど静まり返った。
私は屋上のフェンスに寄りかかり、一人で火照った頬を冷ましていた。
「……本気、なんて。調子狂うわね」
ふふ、と自分でも驚くほど柔らかな笑みがこぼれる。
あんなヘタレな男に、こんなに振り回されるなんて。明日の決勝が終わったら、この『契約』はどうなるんだろう。私の心臓は、夕日よりも赤く脈打っていた。
その時。
背後の重い鉄扉が、ギィ……と嫌な音を立てて開いた。
「もう、龍崎くん? 忘れ物なら――」
振り返った瞬間、言葉が凍りついた。
そこにいたのは、龍崎ではない。
黒いパーカーのフードを深く被り、下卑た笑みを浮かべた見知らぬ男たちが三人。
「……誰? ここは立ち入り禁止よ」
「へぇ、こいつが噂の『総長の女』か。思ったより上玉じゃねえか」
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
私は後ずさりしたが、背中には冷たいフェンス。逃げ場はない。
「……龍崎くんを狙ってるの? 卑怯ね。本人に直接言えばいいじゃない」
「あんな化け物と正面からやり合うバカがいるか。……お前を連れてきゃ、あいつも明日の試合どころじゃねえだろ?」
男の一人が、私の腕を強引に掴み上げた。
「離しなさい! 叫べばすぐに先生が来るわよ!」
「叫べよ。……その前に、これで眠ってもらうけどな」
鼻を突く薬品の臭い。私は必死に抵抗し、足元にあったプランターを蹴り飛ばした。
ガシャン! と派手な音が響く。
「龍崎くん!! 助けて!!」
喉が張り裂けるほど叫んだ。
けれど、その声は夕風にかき消され、校門を出てバイクのエンジンをかけた龍崎の耳には、届かない。
(お願い……気づいて……!)
私は最後の力を振り絞り、ポケットに入れていた『英単語帳』をフェンスの隙間から外へと放り投げた。
けれど、それは風に煽られ、校舎の裏庭にある深い茂みの中へと消えていく。
「このアマ……っ、往生際が悪いんだよ!」
視界がぐにゃりと歪み始める。
遠のく意識の中で、私は校門の方を見た。
そこには、私の異変に気づくことなく、明日の勝利を信じて走り去っていく龍崎の後ろ姿があった。
「……バカ。……気づきなさいよ……」
私の世界は、そこで真っ暗に染まった。
一方、バイクを走らせる龍崎は、ヘルメットの中で鼻歌を歌っていた。
「……明日、勝ったら。今度こそ、ちゃんと言わなきゃな」
バックミラーに映る校舎は、夕闇に包まれて静まり返っている。
彼は、自分の『女神』が奪われたことなど露ほども知らず、ただ真っ直ぐに前だけを見て加速した。
球技大会、当日。
校庭は朝からお祭り騒ぎのような熱気に包まれていた。けれど、龍崎蓮の心は、どんよりとした曇り空のように晴れない。
「……おかしいだろ。実花の奴、既読すらつかねえなんて」
体育館の入り口で、龍崎は何度もスマホの画面を確認していた。
昨日の屋上。あんなにいい雰囲気で、明日の勝利を約束したはずなのに。いつもなら「遅刻したら承知しないわよ」と毒舌交じりのモーニングコールが来るはずなのに。
そこへ、一人の男子生徒が近づいてきた。
見覚えのない顔。けれど、その腕には『実行委員会』の腕章がついている。
「あ、龍崎さん。……如月さんのこと、探してます?」
「お前、実花がどこにいるか知ってんのか!?」
龍崎が詰め寄ると、その生徒は怯えたふりをして、わざとらしく溜息をついた。
「さっき連絡があったんですよ。如月さん、昨日の夜から急に熱が出たみたいで……今日は欠席するって。相当ひどい体調不良らしいですよ」
「……熱? あいつが?」
龍崎の動きが止まる。
昨日の屋上では、あんなに元気だった。頬を赤くして、私のことなんて……と言いかけていた彼女。
「『せっかくの決勝なのに、龍崎くんに心配かけたくないから、黙っててほしい』って言われましたけど……一応、伝えておきますね」
男はそれだけ言うと、人混みの中に消えていった。
その男の背後で、他校の不良グループがニヤリと下卑た笑みを浮かべていることにも、龍崎は気づかない。
「……なんだよ。あいつ、無理しやがって」
龍崎は拳を握りしめた。
体調不良。それは、実花なら言いそうな理由だった。自分の弱みを他人に見せたがらない、あのツンデレな彼女なら。
「……よし。勝って、速攻で見舞いに行ってやる」
龍崎は自分を納得させるように呟き、体育館へと足を踏み入れた。
けれど、その視線の先。
コートの反対側でウォーミングアップをする一ノ瀬会長が、冷徹な、勝利を確信したような笑みを浮かべていることに気づき、背筋に冷たいものが走った。
「……如月さんは来ないよ、龍崎くん。君は今日、一人で戦うんだ」
一ノ瀬の呟きは、喧騒にかき消されて龍崎には届かない。
実花が今、どこで、どんな恐怖に耐えているかも知らずに――。
最悪のコンディションで、運命のホイッスルが鳴り響こうとしていた。
私は屋上のフェンスに寄りかかり、一人で火照った頬を冷ましていた。
「……本気、なんて。調子狂うわね」
ふふ、と自分でも驚くほど柔らかな笑みがこぼれる。
あんなヘタレな男に、こんなに振り回されるなんて。明日の決勝が終わったら、この『契約』はどうなるんだろう。私の心臓は、夕日よりも赤く脈打っていた。
その時。
背後の重い鉄扉が、ギィ……と嫌な音を立てて開いた。
「もう、龍崎くん? 忘れ物なら――」
振り返った瞬間、言葉が凍りついた。
そこにいたのは、龍崎ではない。
黒いパーカーのフードを深く被り、下卑た笑みを浮かべた見知らぬ男たちが三人。
「……誰? ここは立ち入り禁止よ」
「へぇ、こいつが噂の『総長の女』か。思ったより上玉じゃねえか」
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
私は後ずさりしたが、背中には冷たいフェンス。逃げ場はない。
「……龍崎くんを狙ってるの? 卑怯ね。本人に直接言えばいいじゃない」
「あんな化け物と正面からやり合うバカがいるか。……お前を連れてきゃ、あいつも明日の試合どころじゃねえだろ?」
男の一人が、私の腕を強引に掴み上げた。
「離しなさい! 叫べばすぐに先生が来るわよ!」
「叫べよ。……その前に、これで眠ってもらうけどな」
鼻を突く薬品の臭い。私は必死に抵抗し、足元にあったプランターを蹴り飛ばした。
ガシャン! と派手な音が響く。
「龍崎くん!! 助けて!!」
喉が張り裂けるほど叫んだ。
けれど、その声は夕風にかき消され、校門を出てバイクのエンジンをかけた龍崎の耳には、届かない。
(お願い……気づいて……!)
私は最後の力を振り絞り、ポケットに入れていた『英単語帳』をフェンスの隙間から外へと放り投げた。
けれど、それは風に煽られ、校舎の裏庭にある深い茂みの中へと消えていく。
「このアマ……っ、往生際が悪いんだよ!」
視界がぐにゃりと歪み始める。
遠のく意識の中で、私は校門の方を見た。
そこには、私の異変に気づくことなく、明日の勝利を信じて走り去っていく龍崎の後ろ姿があった。
「……バカ。……気づきなさいよ……」
私の世界は、そこで真っ暗に染まった。
一方、バイクを走らせる龍崎は、ヘルメットの中で鼻歌を歌っていた。
「……明日、勝ったら。今度こそ、ちゃんと言わなきゃな」
バックミラーに映る校舎は、夕闇に包まれて静まり返っている。
彼は、自分の『女神』が奪われたことなど露ほども知らず、ただ真っ直ぐに前だけを見て加速した。
球技大会、当日。
校庭は朝からお祭り騒ぎのような熱気に包まれていた。けれど、龍崎蓮の心は、どんよりとした曇り空のように晴れない。
「……おかしいだろ。実花の奴、既読すらつかねえなんて」
体育館の入り口で、龍崎は何度もスマホの画面を確認していた。
昨日の屋上。あんなにいい雰囲気で、明日の勝利を約束したはずなのに。いつもなら「遅刻したら承知しないわよ」と毒舌交じりのモーニングコールが来るはずなのに。
そこへ、一人の男子生徒が近づいてきた。
見覚えのない顔。けれど、その腕には『実行委員会』の腕章がついている。
「あ、龍崎さん。……如月さんのこと、探してます?」
「お前、実花がどこにいるか知ってんのか!?」
龍崎が詰め寄ると、その生徒は怯えたふりをして、わざとらしく溜息をついた。
「さっき連絡があったんですよ。如月さん、昨日の夜から急に熱が出たみたいで……今日は欠席するって。相当ひどい体調不良らしいですよ」
「……熱? あいつが?」
龍崎の動きが止まる。
昨日の屋上では、あんなに元気だった。頬を赤くして、私のことなんて……と言いかけていた彼女。
「『せっかくの決勝なのに、龍崎くんに心配かけたくないから、黙っててほしい』って言われましたけど……一応、伝えておきますね」
男はそれだけ言うと、人混みの中に消えていった。
その男の背後で、他校の不良グループがニヤリと下卑た笑みを浮かべていることにも、龍崎は気づかない。
「……なんだよ。あいつ、無理しやがって」
龍崎は拳を握りしめた。
体調不良。それは、実花なら言いそうな理由だった。自分の弱みを他人に見せたがらない、あのツンデレな彼女なら。
「……よし。勝って、速攻で見舞いに行ってやる」
龍崎は自分を納得させるように呟き、体育館へと足を踏み入れた。
けれど、その視線の先。
コートの反対側でウォーミングアップをする一ノ瀬会長が、冷徹な、勝利を確信したような笑みを浮かべていることに気づき、背筋に冷たいものが走った。
「……如月さんは来ないよ、龍崎くん。君は今日、一人で戦うんだ」
一ノ瀬の呟きは、喧騒にかき消されて龍崎には届かない。
実花が今、どこで、どんな恐怖に耐えているかも知らずに――。
最悪のコンディションで、運命のホイッスルが鳴り響こうとしていた。



