***
翌⽇。
澄華は、誰かに揺さぶられるような感覚で、意識の底から引き上げ
「――華。……澄華!」
⾃分の名前。
はっきりとした声に、反射的に⾝体が跳ねる。
「――っ!」
ガバッと上体を起こすと、視界いっぱいに広がったのは――
にやり、といたずらっぽく笑う、陽⽃の顔だった。
「やっと起きた。」
楽しそうに⽬を細めて、続ける。
「ったく、寝坊だぞ〜?」
⼀瞬、頭が追いつかない。
(……朝……?)
ぼんやりしたまま瞬きをしてから、澄華は⼩さく息を吐いた。
「……ごめん。」
そう⾔うと、陽⽃はますます楽しそうに笑う。
「はいはいおはよう。」
「……おはよう。」
ベッドから降りて⽴ち上がり、軽く伸びをしながら、澄華は陽⽃の後に
ついて部屋を出た。
階段を下りた、その途中。
⿐をつく、異変。
(……焦げ……?)
⾁を焼きすぎたような、はっきりとした匂い。
澄華が眉を寄せた、その直後。
陽⽃も同じ匂いに気づいたらしく、ピタリと⾜を⽌めた。
「……あ。」
顔⾊が変わる。
「まさか……!」
そう呟いたかと思うと、次の瞬間にはキッチンへ向かって⾛り出して
いた。
「陽⽃――」
制⽌する間もなく。
澄華も数歩遅れてキッチンへ向かう。
そして、
「ギャーーーッ!!」
奥のコンロの⽅から、あまりにも切実な悲鳴が響いた。
「……!?」
思わず駆け寄る。
視界に⾶び込んできた光景。
フライパンの上には――
もはや原型を留めていない、⿊く炭化した何か。
(ベー、コン……? 何あれ……)
煙を上げるそれの前で。
気まずそうに視線を逸らし、腕を組んだまま⽴っている凛。
「なにやってんすか班⻑ぉぉぉ!!」
半泣きで凛の肩をガクガク揺さぶる、陽⽃。
「おい、揺らすな……!」
「ベーコン!俺のベーコン!!」
「知らねぇよ、⽕通しすぎただけだろ。」
「通しすぎどころじゃないですって!!炭っすよ炭!!」
「うるせぇな.....。」
完全に、地獄絵図だった。
澄華はその場で⽴ち尽くす。
頭の上に⾒えない「?」がいくつも浮かんだ。
(……どういう状況……?)
昨夜涙を流していた⼈と同⼀⼈物とは思えない。
そのとき。
凛が、ようやく澄華に気づいた。
⼀瞬だけ、視線が合う。
(……あ。)
胸が、きゅっと縮む。 ――昨夜のことが、脳裏をよぎる。
だが、凛は何事もなかったかのように視線を逸らし、咳払いを⼀つ
した。
「……起きたのか。」
「……はい。」
短い会話。
それだけで、澄華は察した。 ――触れるな、という合図。
陽⽃はそんな空気などお構いなしに、炭化ベーコンを指差して叫ぶ。
「これ、どうすんすか!!」
凛は、フライパンを⾒下ろし、少しだけ間を置いてから。
「……新しく焼けばいいだろ。」
「もうベーコン残り⼀枚っすよ!!」
「……」
「……」
凛はゆっくりと視線を逸らした。
澄華は、その様⼦を⾒て、ほんの⼀瞬だけ。 ――⼝元が、緩みそうになるのを、必死に堪えた。
「もお〜〜!!」
陽⽃は半ば⼋つ当たり気味に叫びながら、フライパンの中にあった
“ベーコンだったもの”を菜箸で端へ追いやった。
⿊く炭化したそれは、もはや⾷材というより事故現場の残骸である。
「……」
凛は何も⾔わず、視線だけを逸らしている。
陽⽃はその様⼦に⼀層腹を⽴てたのか、勢いよく振り返った。
「班⻑はもう何もしないで⽴っててください!!!!」
びしっと指を差し、軽く睨みつける。
「……」
凛は⼀瞬だけ眉を動かしたが、反論することもなく、
無⾔で⼀歩キッチンから下がった。
(従った……)
澄華が内⼼で驚いていると、陽⽃はすぐにこちらへ向き直り、
空気を切り替えるように⾔った。
「わりぃ。澄華、スクランブルエッグかなんか作ってくんねぇ?」
「え?」
⼀瞬⼾惑ったものの、思わず頷いてしまう。
「あ、うん……」
陽⽃から⼿渡された卵を受け取り、澄華は⼩さめのボウルを
取り出した。
⼀つ⽬、コン、と割る。
⼆つ⽬、コンコン。
三つ⽬も、コンコンコン。
殻を捨て、作業を終えてから――
「……?」
何気なくボウルを覗き込んだ陽⽃が、固まった。
数秒の沈黙。
そして、
「……そんなことある!?!?」
叫び声がキッチンに響き渡る。
澄華が不思議そうにボウルを⾒る。
中には――
割れた⻩⾝と⽩⾝に絡みつく、無数の卵の殻。
しかも、ほとんどすべてが細かく砕けた破⽚だった。
「ハア゛ァァァァァァ!?!?!?!」
陽⽃は頭を抱え、絶叫する。
「なんで!?どうして!?三つ割って三つ全部殻⼊るとかある!?
しかも全部細かい!!」
床に膝をつき、そのまま崩れ落ちる。
「……?」
澄華はきょとんとした顔で、⾸を傾げた。
「どうしたの陽⽃.....」
その⼀⾔が、致命傷だった。
陽⽃は、ゆっくりと顔を上げる。
澄華を⾒る⽬は、もはや仲間を⾒るそれではない。
「……」
「……」
「……あ゙ーっ!!もう!!
⼆⼈ともなんなんだよぉぉぉぉ!!!」
「家事能⼒無いにもほどがあるだろぉぉぉぉぉ!!!!!」
再び⼤絶叫。
床に両⼿と膝をついたまま、魂が抜けかけた声を響かせる。
キッチンの端では。
凛が、明らかにドン引いた⽬でその光景を眺めていた。
(……なんなんだ、こいつら。)
そして澄華は。
「……え?」
と、⼩さく呟くだけだった。
「もぉー!澄華も、あっち座ってて!」
陽⽃は半ば強引に⼆⼈の肩をぐいぐい押し、キッチンの外へ
追い出した。
「危ねぇし、邪魔だし!
朝飯は俺が作るから、⼆⼈とも何もしないでください!!」
「……」
「……」
有無を⾔わせぬ勢いに、澄華と凛はそのままソファへ押し戻される。
キッチンでは、陽⽃が⼀⼈で忙しなく動き回りながら、
「ったくもう……
なんでこの班、戦闘⼒全振りで⽣活⼒ゼロなんだよ……」
と、ぶつぶつ⽂句を⾔っていた。
フライパンの⾳、包丁の⾳、卵を割る軽快な⾳。
それらを、澄華はソファに座ったまま、ぼんやりと眺めていた。
(……陽⽃、⼿慣れてるなぁ。)
昨夜のはしゃぎようからは想像もつかないほど、動きに無駄がない。
その横顔を⾒ながら、澄華は⼩さく息を吐いた。 ――そのとき。
隣に座る凛が、ふいに⼝を開いた。
「……⾬宮。」
名を呼ばれ、澄華はわずかに肩を揺らす。
「お前の苗字……どっかで聞いたことがある。」
低く、探るような声。
「お前の両親も、上進隊か?」
⼀瞬。
澄華の動きが⽌まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちる感覚。
だが、それは⻑く続かなかった。
澄華はふっと⼩さく息をつき、肩の⼒を抜く。
「……ええ、まぁ。」
視線を前に向けたまま、静かに続けた。
「⽗が、上進隊でした。」
少し間を置いて。
「……三年前に、殉職しましたけど。」
その⾔葉に。
凛の動きが、ほんの⼀瞬、⽌まった。
視線が、澄華へと向く。
だが、深く踏み込むことはしない。
数秒の沈黙のあと。
「……そうか。」
それだけを、低く返した。
それ以上の⾔葉はなかった。
慰めも、同情も、詮索も無い。
ただ、事実を受け取っただけの声。
澄華は、その反応に、少しだけ安堵する。
(……聞いてこない。深⼊りしない。)
それが、今はありがたかった。
キッチンの⽅から、陽⽃の声が⾶んでくる。
「ちょっとー!
そっち静かすぎて逆に怖いんですけど!!」
「……うるせぇ。」
凛が短く返す。
「すいません!」
陽⽃の軽い返事とともに、フライパンの⾳が響いた。
その⾳に包まれながら。
澄華は、ソファの上で静かに⼿を握りしめた。
⽗の背中。
空の話。
あの⽇の⾻⽚の重み。
それらを、まだ胸の奥にしまったまま。 ――この班で、⽣きていくのだと。
⼩さく、確かに、思った。
ようやく完成した料理が⾷卓に並び、⼿を合わせる。
「「「いただきます」」」
平和で和やかな空気が流れていたその時。
凛が不意に、⼝を開いた。
「……⾔ってなかったが、俺は戦闘部隊の隊⻑だ。
任務の時は大体戦線に出る。百合のお前らと行動することはほぼない。」
⾷卓の中で、凛の突然の⼀⾔に、澄華も陽⽃も、箸を⽌めて顔を
⾒合わせた。
「……え?」
澄華は思わず⼩さく声を漏らし、陽⽃も⼀瞬⽬を⾒開いたまま固まる。
普段の冷たく、時には冗談めいた⼝調の裏に、そんな重い肩書きが
隠されていたとは――⼆⼈とも予想だにしていなかった。
凛は静かにマグカップを置き、テーブル越しに⼆⼈を⾒下ろすように
視線を合わせる。
いつもの鋭さは残しつつも、今はその瞳にどこか、覚悟のような影が
あった。
「……戦闘部隊の、隊、⻑……」
思わず呟いた澄華の声には、驚きと尊敬が混ざっていた。
陽⽃も⼝を半開きにしながら、少し声を震わせて返す。
「そう、なんですか……」
凛は何も⾔わずに、ただ淡々と⾷卓を⽚付け始める。
だが、その静かな動作の⼀つ⼀つに、隊⻑としての責任感と、
⽇常の中で戦いを背負ってきた重みが滲んでいるように⾒えた。
澄華は⽬の前の凛を⾒つめながら、⼩さく息をついた。
頭では理解しようとしても、その事実の重さに⼼が追いつかず、
胸の奥が少し締め付けられる感覚があった。
(この⼈が私たちの班⻑で、戦闘部隊のトップ………)
陽⽃もまた、少し⼒の抜けた声で、
「……氷室班⻑……すっごいな……」
と漏らす。
凛はその⾔葉には答えず、ただ⾷器を⽚付け終えると、
普段通りの低く落ち着いた声で、
「ところでお前ら……準備はできてんのか?」
とだけ告げた。
「え……準備って?」
陽⽃がぽかんとした顔で訊き返す。
声に含まれる驚きと焦りが、澄華の⽿にもはっきり届いた。
凛は眉間に軽く皺を寄せ、少し呆れたような表情で答えた。
「地上に出る準備に決まってんだろ。」
その⾔葉に、澄華と陽⽃は数秒間、⼝を開けたまま固まった。
まるで時が⽌まったかのように、⼆⼈の視界の端に凛の姿がぼんやりと
残る。
澄華の体の奥底で、⾎が熱く湧き上がるのを感じた。
(地上……!?)
頭の中をその⼆⽂字がぐるぐると回り、⼼臓が早鐘のように打ち出す。
昨⽇までの疲労も不安も、すべて吹き⾶ぶような⾼揚感が、
澄華の全⾝を包んだ。太陽の下で、⾃由に⽣きる。
⽬の前にあるのは、その夢への第⼀歩だ。
凛は⼆⼈を鋭く⾒据え、低くため息をつく。
「上進隊のしごとって⾔ったら、それしかねぇだろ。
お前ら、なにするために⼊ったんだ?」
その声は嫌味を含んでいるが、澄華には届かなかった。
⽿には⼊るが、意識の焦点は地上への期待で張りつめている。
⽬の前に広がるのは、胸を⾼鳴らせる未来の光景だけだ。
澄華の⽬は⼀点に凝視され、まるで他のものは視界に⼊らない。
全⾝の⼒が⾃然と前に前にと引き寄せられるようで、胸の奥が
熱くなり、⾎の流れが速くなった。
興奮で全⾝が震え、無意識に⼿を握りしめる。
澄華の呼吸は荒くなるが、それさえも⼼地よく、胸の⾼鳴りを
後押しした。
「今すぐに、準備してきます!!!」
思わず叫んだその声は、澄華⾃⾝でも驚くほど⼤きく、
空気を震わせた。
⾜⾳を響かせながら、階段へと駆け上がる。階段の⼀段⼀段が、
夢に向かう確かな⼀歩のように感じられる。
髪の⽑が揺れ、隊服の裾が後ろになびく。
全⾝の細胞が、⽬標への衝動に応えるように熱く躍動していた。
凛はその豹変ぶりを⾒て、軽く⽬を⾒開く。
⼀瞬だけ、普段の冷静な表情を忘れ、澄華の⽣き⽣きとした様⼦に
視線を留める。
だがすぐにいつもの落ち着きを取り戻し、階下で呆然と⽴ち尽くす
陽⽃に⽬を向けた。
「お前も、早く着替えてこい。」
⾔い終えると、凛は⾜早に⾃室へと上っていく。
階段を上がる後ろ姿は、淡々とした動作ながらも、戦闘部隊隊⻑
としての凛の威厳と、⽇常の中に潜む決意の強さをにじませていた。
⼼臓の⿎動が⾼鳴り、呼吸が荒くなる。
だがそれは恐怖や不安ではなく、喜びと期待の⾼鳴りだった。
澄華は全⾝で地上への決意を感じながら、⾃室に駆け込み、
素早く隊服を整え、装備を肩にかける。
階段を駆け上がる⾜⾳と、⼼の⾼鳴りが、澄華の背中を押す。
そして澄華は、まさに地上への第⼀歩を踏み出そうとしていた。
⼀階に到着すると、すでに準備を終えた陽⽃と凛が⽴っていた。
⼆⼈は澄華が来る直前まで、何かを話していたようで、会話の余韻が
微かに空気に残っていた。
しかし、澄華が姿を現すや否や、その会話はぴたりと⽌まった。
微妙に張りつめた静けさが⼀瞬漂う。
澄華は⾼揚感で胸がいっぱいになり、今にも⾶び上がってしまいそうな
衝動を必死に押さえつけた。
多幸感を押し殺すように、いつもの落ち着いた表情を保ちつつ、⼆⼈に
向かって駆け寄る。
「……さっきも言ったが、俺は隊⻑として前線に出る。」

