意地っ張りな私たちが、神様に許された最後の100日間

陽茉梨(ひまり)が私を「お父さん」と呼び始めてから、一週間が経った。
彼女の記憶は、砂浜に書いた文字が波にさらわれるように、毎日少しずつ削り取られていった。
俺の名前も、付き合った日の雨の匂いも、屋上で見た星空も。今の彼女にとっては、おとぎ話ですらなくなっていた。
「……おとーさん、……おはな、……きれい……」
車椅子に座る陽茉梨が、窓際の花瓶に刺さった、私が毎日替えているひまわりを指差して笑う。
その無邪気な笑顔を見るたびに、俺の心臓は鋭いナイフで何度も突き刺されるような痛みに襲われた。
「彼女」ではなく「子供」として私を見る瞳。
俺は、お前の彼氏なんだよ。お前を抱きしめて、キスをした、世界でたった一人の男なんだよ。
喉まで出かかった言葉を、私は毎日、イチゴミルクと一緒に飲み込んできた。
主治医から「今夜が山だ」と告げられたのは、月が冷たく光る深夜のことだった。
陽茉梨の呼吸は浅く、不規則になり、モニターの電子音が死を急かすように速く刻まれる。
「……陽茉梨。……陽茉梨、聞こえるか?」
俺は、セロハンテープで固定され続けて、もうボロボロになった彼女の右手のピンキーリングを握りしめた。
返事はない。ただ、薄く開いた瞳が虚空を彷徨っている。
俺は、彼女の耳元で、今まで一度も言わなかった本音を零した。
「……お父さんじゃなくて、いいんだ。……ただの幼馴染でもいい。……でも、……一瞬でいいから、俺を『蒼汰』って呼んでくれよ……」
その時だった。
止まりかけていた砂時計が、一瞬だけ逆流するように。
陽茉梨の、焦点の合わなかった瞳が、ぐっ、と力強く私を捉えた。
「……そう、……た……?」
心臓が止まるかと思った。
その声は、幼児退行した子供のような声じゃない。
意地っ張りで、強がりで、でも誰よりも優しかった、私の大好きな「陽茉梨」の声だった。
「……陽茉梨!? わかるのか? 俺だ、蒼汰だ!」
陽茉梨は、動かないはずの右手を、震えながら、本当に数ミリだけ持ち上げた。
俺の頬に触れる、氷のように冷たい指先。でも、そこからは火傷しそうなほどの「愛」が伝わってきた。
「……ごめんね、……そうた。……ずっと、……困らせて。……わがまま、……ばっかりで……」
「いいんだ! わがままでも、何でもいい! ……行くな、陽茉梨! 置いていくな!」
陽茉梨は、歪んだ口元で、一生懸命に笑った。
あの日、ひまわり畑で見せた、あの最高の笑顔で。
彼女は、残された全ての命を振り絞るようにして、最後の一言を紡ぎ出した。
「……私なんかを、……好きになってくれて、……ありがとう。……だいすき、だよ……蒼汰」
その瞬間、繋いでいた手の力が、ふっと抜けた。
モニターの電子音が、残酷なまでに平坦な一本の線を描き、静かな病室に「ピー――」という音が響き渡る。
「……陽茉梨? 冗談だろ? ……おい、目を開けろよ!」
俺は、彼女を壊れるほど抱きしめた。
温かい。まだ、こんなに温かいのに。
彼女の魂は、あの一言を伝えるためだけに、地獄のような暗闇から戻ってきてくれたんだ。
「……俺もだよ! 俺も、大好きだ! 世界で一番、愛してるんだよ!」
返事はない。
ただ、彼女の頬に残った私の涙が、月の光に照らされて、銀色の星のように輝いていた。
窓の外では、夜明けの光が差し込み始めていた。
俺の世界から、太陽が消えた。
だけど、手は、手は温かかった。