病院の通用口。冷たいコンクリートの上に座り込んで、蒼汰はもう何時間も、自分の泥だらけの靴を見つめていた。
額の傷は、陽茉梨(ひまり)に本を投げつけられた時のものだ。カサブタになりかけて、時々疼く。でも、その痛みだけが、今の彼にとって陽茉梨と繋がっている唯一の証拠だった。
「……君、まだいたのかね」
不意に頭上から声がした。顔を上げると、陽茉梨の主治医が、白衣のポケットに手を突っ込んで立っていた。
蒼汰は慌てて立ち上がろうとしたが、足が痺れて無様に突き飛ばされるように転んだ。
「……すみません。すぐ、どきます」
「いや、いいんだ。……君に、見せておきたいものがある。彼女の容態が急変する前にね」
先生の目が、悲しげに細められた。その「急変」という言葉に、蒼汰の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
案内されたのは、リハビリ室の片隅にある、防音の小さな個室だった。そこには一台のタブレットが置かれていた。
「彼女、一昨日の夜にね。……まだ右手が少し動いていた頃、看護師に頼んでこれを撮ったんだ。君を追い出す、数時間前のことだよ」
先生が画面をタップする。
ノイズ混じりの画面に映し出されたのは、病院のパジャマを着て、ベッドに背中を預けた陽茉梨だった。
顔色は土色で、右側の顔が少し引き攣れている。でも、その左目だけは、真っ直ぐにカメラ——つまり、これを見るであろう蒼汰——を見つめていた。
『……そ、……た……』
画面越しの、掠れた声。
蒼汰は、息をすることさえ忘れて画面に釘付けになった。
『……ご、……め……。……だい、きらい……って、……うそ……だよ』
陽茉梨は、震える左手で、一生懸命に自分の右手を持ち上げようとしていた。
だらんと垂れ下がる右手を、無理やりカメラの前に持ってくる。その小指には、あの日、床に転がっていたはずのピンキーリングが、セロハンテープでぐるぐる巻きに固定されていた。
『……わすれちゃうの、……こわい。……だから、……ひどいこと、……いっぱい……いうけど……』
陽茉梨は、歪んだ口元で、泣きながら笑った。
その笑顔は、かつてひまわり畑で見せた、あの輝くような笑顔の影を宿していた。
『……あいた……い。……そうた、……あいたいよ……!』
映像はそこで途切れた。
静まり返った個室。蒼汰の頬を、熱い涙が止めどなく伝い落ちた。
あんなに酷いことを言われて、本を投げつけられて、血を流して。
それでも、あいつの本音は、たった一行の「会いたい」だった。
「……バカ野郎。……本当、バカだな、お前は……」
蒼汰は、拳を血が滲むほど強く握りしめた。
彼女が自分を忘れていく恐怖と戦いながら、それでも自分を遠ざけようとした。その「意地」の正体は、自分へのあまりにも深すぎる愛だった。
「先生。……俺、行きます」
「……今の彼女は、もう君の顔が分からないかもしれない。それでも、いいのかい?」
「いいです。……俺が、あいつの分まで覚えてればいいだけですから」
蒼汰は、診察室を飛び出した。
エレベーターを待つ時間さえ惜しくて、階段を駆け上がる。
一段飛ばし、二段飛ばし。肺が焼けるように痛い。でも、あいつが一人で戦っている痛みに比べれば、こんなの、かすり傷ですらない。
病室のドアの前に立ち、蒼汰は大きく息を吸い込んだ。
額の傷を隠さず、ボロボロの制服のまま。
彼は、もう一度「魔法」をかけるために、その扉を力一杯押し開けた。
「……陽茉梨! ただいま!」
ベッドの上。虚空を見つめていた陽茉梨が、ゆっくりと首を動かした。
その瞳に、一瞬だけ、かつての光が宿ったような気がした。
額の傷は、陽茉梨(ひまり)に本を投げつけられた時のものだ。カサブタになりかけて、時々疼く。でも、その痛みだけが、今の彼にとって陽茉梨と繋がっている唯一の証拠だった。
「……君、まだいたのかね」
不意に頭上から声がした。顔を上げると、陽茉梨の主治医が、白衣のポケットに手を突っ込んで立っていた。
蒼汰は慌てて立ち上がろうとしたが、足が痺れて無様に突き飛ばされるように転んだ。
「……すみません。すぐ、どきます」
「いや、いいんだ。……君に、見せておきたいものがある。彼女の容態が急変する前にね」
先生の目が、悲しげに細められた。その「急変」という言葉に、蒼汰の心臓がドクンと嫌な音を立てた。
案内されたのは、リハビリ室の片隅にある、防音の小さな個室だった。そこには一台のタブレットが置かれていた。
「彼女、一昨日の夜にね。……まだ右手が少し動いていた頃、看護師に頼んでこれを撮ったんだ。君を追い出す、数時間前のことだよ」
先生が画面をタップする。
ノイズ混じりの画面に映し出されたのは、病院のパジャマを着て、ベッドに背中を預けた陽茉梨だった。
顔色は土色で、右側の顔が少し引き攣れている。でも、その左目だけは、真っ直ぐにカメラ——つまり、これを見るであろう蒼汰——を見つめていた。
『……そ、……た……』
画面越しの、掠れた声。
蒼汰は、息をすることさえ忘れて画面に釘付けになった。
『……ご、……め……。……だい、きらい……って、……うそ……だよ』
陽茉梨は、震える左手で、一生懸命に自分の右手を持ち上げようとしていた。
だらんと垂れ下がる右手を、無理やりカメラの前に持ってくる。その小指には、あの日、床に転がっていたはずのピンキーリングが、セロハンテープでぐるぐる巻きに固定されていた。
『……わすれちゃうの、……こわい。……だから、……ひどいこと、……いっぱい……いうけど……』
陽茉梨は、歪んだ口元で、泣きながら笑った。
その笑顔は、かつてひまわり畑で見せた、あの輝くような笑顔の影を宿していた。
『……あいた……い。……そうた、……あいたいよ……!』
映像はそこで途切れた。
静まり返った個室。蒼汰の頬を、熱い涙が止めどなく伝い落ちた。
あんなに酷いことを言われて、本を投げつけられて、血を流して。
それでも、あいつの本音は、たった一行の「会いたい」だった。
「……バカ野郎。……本当、バカだな、お前は……」
蒼汰は、拳を血が滲むほど強く握りしめた。
彼女が自分を忘れていく恐怖と戦いながら、それでも自分を遠ざけようとした。その「意地」の正体は、自分へのあまりにも深すぎる愛だった。
「先生。……俺、行きます」
「……今の彼女は、もう君の顔が分からないかもしれない。それでも、いいのかい?」
「いいです。……俺が、あいつの分まで覚えてればいいだけですから」
蒼汰は、診察室を飛び出した。
エレベーターを待つ時間さえ惜しくて、階段を駆け上がる。
一段飛ばし、二段飛ばし。肺が焼けるように痛い。でも、あいつが一人で戦っている痛みに比べれば、こんなの、かすり傷ですらない。
病室のドアの前に立ち、蒼汰は大きく息を吸い込んだ。
額の傷を隠さず、ボロボロの制服のまま。
彼は、もう一度「魔法」をかけるために、その扉を力一杯押し開けた。
「……陽茉梨! ただいま!」
ベッドの上。虚空を見つめていた陽茉梨が、ゆっくりと首を動かした。
その瞳に、一瞬だけ、かつての光が宿ったような気がした。


