意地っ張りな私たちが、神様に許された最後の100日間

蒼汰が来なくなって、四日が経った。
朝が来るたび、私はまず自分の右手を動かそうとして、絶望する。一ミリも動かない指先。感覚のない腕。
でも、今の私にとって、動かない身体よりも恐ろしいことが起きていた。
(……あれ? 私の……隣にいた人は、誰だっけ)
昨日まで、胸が張り裂けるほど叫んでいたはずの「あの人」の顔が、霧に包まれたようにぼやけていく。
背が高いこと。少し低い声で笑うこと。ひまわりを折ってくれたこと。
断片的な記憶はあるのに、それらが一つの「人物」として繋がらない。
「陽茉梨、お昼よ。一口だけでも食べましょう?」
お母さんが入ってくる。泣き腫らした目で、私の口元にお粥を運ぶ。
私はそれを拒絶する力さえ失っていた。
機械的に口を動かしながら、私は必死に、引き出しの中にある「ひまわり柄のノート」に左手を伸ばした。
(書かなきゃ。忘れちゃう前に……あの人の名前を……!)
震える手でページをめくる。
そこには、私の拙い字で、何度も何度も同じ名前が書かれていた。
『 蒼汰 』『 蒼汰 』『 蒼汰 』
(……そうた。……そう、だ。蒼汰……くん)
文字を目でなぞる。でも、その名前を認識した瞬間、脳の奥がズキリと疼いた。
「蒼汰」という名前と、あの部室で抱きしめてくれた体温が、どうしても結びつかない。
私の脳は、もう、愛を維持するための機能を失い始めていた。
「……あ、……あ、あぁ……」
私はノートを床に叩きつけた。
意味がない。文字なんて、ただのインクの跡だ。
あの熱い手のひら。私を叱ってくれた怒鳴り声。額から流れた、あの赤い血。
それらが、砂浜に書いた文字が波にさらわれるように、サラサラと消えていく。
(……待って。行かないで。……蒼汰、私を置いていかないで!)
心の中の叫びは、誰にも届かない。
右側の視界は完全に真っ暗になり、左側の視界も、まるで古い映画のようにノイズが混じり始めていた。
その時、病室のドアが静かに開いた。
入ってきたのは、蒼汰ではなかった。
……クラスメイトの菜緒だった。
「……陽茉梨。これ、蒼汰から預かったんだけど」
菜緒は泣きそうな顔で、小さな紙袋をベッドの上に置いた。
中に入っていたのは、あの日の放課後、彼が買おうと言っていた「イチゴ味のアイス」だった。
もうすっかり溶けて、形を失ったドロドロの液体。
「……あいつ、学校にも来ないで、ずっと病院の入り口にいるんだよ。……陽茉梨に会う資格がないって、ずっと泣きながら座り込んでて……」
菜緒の言葉が、遠くの波音のように聞こえる。
私は、溶けたアイスの袋を左手で握りしめた。
冷たい。でも、あの日、彼が「温めてやる」と言ってくれた手のひらの方が、ずっと、ずっと熱かったことだけは、本能が覚えていた。
「……あ、……あ……」
涙が、私の頬を伝い、溶けたアイスの中に落ちる。
「蒼汰」という文字は思い出せても、もう彼の顔が思い出せない。
私は、自分を一番愛してくれた人の顔を、自分の手で消してしまったのだ。
灰色の世界の中で、私はただ、形のない愛の残骸を抱きしめていた。
これが、私に与えられた、最後の「意地」の代償だった。
50話に向けた重厚な「引き」
「名前と顔の不一致」: 記憶障害のリアルな恐怖を描くことで、読者に「手遅れ感」を強く印象づけます。
「溶けたアイス」: 幸せの象徴だったアイテムが、無残な形(溶けた状態)で戻ってくることで、壊れた関係を象徴させます。
「病院の入り口にいる蒼汰」: 拒絶されてもなお、近くを離れられない蒼汰の執着が、次なる再会の爆発力を生みます。