その日の朝、陽茉梨(ひまり)は目が覚めた瞬間、得体の知れない恐怖に襲われた。
隣の椅子で丸まって眠る蒼汰(そうた)の顔を見て、一瞬、名前が出てこなかったのだ。
(……え? 誰、だっけ。この、かっこいい人……)
数秒後、濁流のように記憶が戻ってきた。蒼汰だ。私の幼馴染で、私の世界で一番大切な、彼氏。
でも、その数秒の「空白」が、心臓を冷たい手で握りつぶされたような戦慄を呼び起こした。右手の麻痺、失語症……。次は、私の「心」が壊れていく。
「……あ、……そう、た……」
掠れた声で呼ぶと、蒼汰は飛び起きるように目を開けた。
「陽茉梨! 起きたか? 喉乾いた? 水、飲むか?」
彼はいつものように、甲斐甲斐しくストローを口元へ運んでくれる。その献身的な姿を見るのが、今は何よりも苦しかった。
(……だめだよ、蒼汰。こんな私に、時間を使い切っちゃだめ)
陽茉梨は、震える左手でサイドテーブルにあった「五十音表」を指差した。
一文字ずつ、魂を削るようにして、彼に伝える。
『わ』『た』『し』『を』……『す』『て』『て』
蒼汰の手が、ピタリと止まった。
「……何言ってんだよ。冗談でも、そんなこと指差すな」
蒼汰は無理に笑おうとしたが、その瞳は激しく揺れていた。
陽茉梨は首を振り、さらに文字を追う。
『わ』『す』『れ』『る』『の』『が』『こ』『わ』『い』
『き』『れ』『い』『な』『ま』『ま』『で』『お』『わ』『り』『た』『い』
「……陽茉梨。お前、何言って……」
『お』『ね』『が』『い』
『ほ』『か』『の』『こ』『と』『し』『あ』『わ』『せ』『に』『な』『っ』『て』
「ふざけんな!!」
蒼汰が立ち上がり、椅子が派手な音を立てて倒れた。
静かな病室に、彼の怒りと悲しみが混ざった絶叫が響く。
「俺がどれだけお前を……っ! お前が俺を忘れても、俺がお前を覚えてるって言っただろ! 他の奴なんていらねーよ! お前がいいんだよ、ボロボロになっても、俺のことが分からなくなっても、俺はここにいるって決めたんだよ!」
陽茉梨は、声にならない嗚咽を漏らしながら泣いた。
右側が見えない視界の端で、蒼汰が泣きながら自分を抱きしめてくる。
彼の制服の匂い。温かい体温。
これさえも、いつか私は「ただの熱」だとしか感じられなくなるのだろうか。
「……捨てねーよ。死んでも捨てねー。お前が俺を忘れるなら、毎日一から自己紹介してやる。毎日、お前に告白してやる。……だから、そんな悲しいこと言うなよ……」
蒼汰の涙が、陽茉梨の頬にこぼれ落ちる。
陽茉梨は、動く左手で彼の背中を強く、強く掴んだ。
(……ごめんね。ごめんね、蒼汰。……大好きだよ。大好きだよ……)
心の中ではこんなに叫んでいるのに、唇からは「あ、あ」という壊れた音しか出ない。
二人の間に横たわる、残酷な一ヶ月というリミット。
陽茉梨の「自分を捨ててほしい」という最後の抵抗は、蒼汰の「絶対に離さない」という愛に、無残にも、そして優しく打ち砕かれた。
窓の外では、季節外れの雪が静かに降り積もっていた。
すべての音を消し去るような白さの中で、二人はただ、壊れゆく今を抱きしめ合っていた。
隣の椅子で丸まって眠る蒼汰(そうた)の顔を見て、一瞬、名前が出てこなかったのだ。
(……え? 誰、だっけ。この、かっこいい人……)
数秒後、濁流のように記憶が戻ってきた。蒼汰だ。私の幼馴染で、私の世界で一番大切な、彼氏。
でも、その数秒の「空白」が、心臓を冷たい手で握りつぶされたような戦慄を呼び起こした。右手の麻痺、失語症……。次は、私の「心」が壊れていく。
「……あ、……そう、た……」
掠れた声で呼ぶと、蒼汰は飛び起きるように目を開けた。
「陽茉梨! 起きたか? 喉乾いた? 水、飲むか?」
彼はいつものように、甲斐甲斐しくストローを口元へ運んでくれる。その献身的な姿を見るのが、今は何よりも苦しかった。
(……だめだよ、蒼汰。こんな私に、時間を使い切っちゃだめ)
陽茉梨は、震える左手でサイドテーブルにあった「五十音表」を指差した。
一文字ずつ、魂を削るようにして、彼に伝える。
『わ』『た』『し』『を』……『す』『て』『て』
蒼汰の手が、ピタリと止まった。
「……何言ってんだよ。冗談でも、そんなこと指差すな」
蒼汰は無理に笑おうとしたが、その瞳は激しく揺れていた。
陽茉梨は首を振り、さらに文字を追う。
『わ』『す』『れ』『る』『の』『が』『こ』『わ』『い』
『き』『れ』『い』『な』『ま』『ま』『で』『お』『わ』『り』『た』『い』
「……陽茉梨。お前、何言って……」
『お』『ね』『が』『い』
『ほ』『か』『の』『こ』『と』『し』『あ』『わ』『せ』『に』『な』『っ』『て』
「ふざけんな!!」
蒼汰が立ち上がり、椅子が派手な音を立てて倒れた。
静かな病室に、彼の怒りと悲しみが混ざった絶叫が響く。
「俺がどれだけお前を……っ! お前が俺を忘れても、俺がお前を覚えてるって言っただろ! 他の奴なんていらねーよ! お前がいいんだよ、ボロボロになっても、俺のことが分からなくなっても、俺はここにいるって決めたんだよ!」
陽茉梨は、声にならない嗚咽を漏らしながら泣いた。
右側が見えない視界の端で、蒼汰が泣きながら自分を抱きしめてくる。
彼の制服の匂い。温かい体温。
これさえも、いつか私は「ただの熱」だとしか感じられなくなるのだろうか。
「……捨てねーよ。死んでも捨てねー。お前が俺を忘れるなら、毎日一から自己紹介してやる。毎日、お前に告白してやる。……だから、そんな悲しいこと言うなよ……」
蒼汰の涙が、陽茉梨の頬にこぼれ落ちる。
陽茉梨は、動く左手で彼の背中を強く、強く掴んだ。
(……ごめんね。ごめんね、蒼汰。……大好きだよ。大好きだよ……)
心の中ではこんなに叫んでいるのに、唇からは「あ、あ」という壊れた音しか出ない。
二人の間に横たわる、残酷な一ヶ月というリミット。
陽茉梨の「自分を捨ててほしい」という最後の抵抗は、蒼汰の「絶対に離さない」という愛に、無残にも、そして優しく打ち砕かれた。
窓の外では、季節外れの雪が静かに降り積もっていた。
すべての音を消し去るような白さの中で、二人はただ、壊れゆく今を抱きしめ合っていた。


