喧嘩をして、泣いて、ようやく陽茉梨(ひまり)が眠りについた後。蒼汰(そうた)は主治医に呼ばれ、重い鉄の扉が開く音が響く診察室にいた。
室内は、不自然なほど静かだった。壁にかけられたレントゲン写真や、いくつもの数値が並ぶモニターが、無機質に陽茉梨の「命の期限」を刻んでいる。
「……落ち着いて聞いてください、蒼汰くん」
主治医の先生が、眼鏡を外して深くため息をついた。その表情を見ただけで、蒼汰の心臓は冷たい氷を飲み込んだように冷え切った。
「先日の発作で、病状は想定よりも遥かに早いスピードで進行しています。……残念ですが、右半身の麻痺が回復する見込みはありません。それどころか……」
先生は一度言葉を切り、蒼汰を真っ直ぐに見つめた。
「……あと一ヶ月。それが、彼女が『彼女』でいられる限界でしょう。その後は意識の混濁が進み、家族の顔も、あなたのことも、分からなくなる可能性があります」
一ヶ月。
脳裏に、あの日ひまわり畑で交わした約束が蘇る。おばあちゃんになるまで、シワシワの手になっても繋いでいようと言った、あの指先の熱。
「……嘘だろ」
蒼汰の声が、乾いた部屋に虚しく響く。
「……そんなの、短すぎる。まだ、何もしてねーよ。一緒に卒業して、大人になって……指輪だって、もっといいの買ってやるって約束したんだよ!」
蒼汰は机を叩き、叫んだ。でも、先生はただ悲しそうに目を伏せるだけだった。医学という壁の前で、彼の叫びは何の力も持たなかった。
「……このことは、陽茉梨さんには伏せておきます。彼女の精神状態を考えると、今はまだ……」
「……言わねーよ。誰が言うかよ、そんなこと」
蒼汰は診察室を出た。
廊下の窓から見える夜空は、あの日二人で見た星空と同じなのに。今の蒼汰には、一筋の光さえ見えなかった。
(……一ヶ月? 笑わせんなよ。あいつ、まだ生きたいって泣いてんだぞ)
彼は洗面所へ向かい、蛇口を全開にして冷たい水で顔を洗った。
鏡に映る自分は、幽霊のように青白く、ボロボロだった。でも、彼は自分の頬を思い切り叩いた。
「……泣くな。泣く暇があるなら、笑わせろ」
蒼汰は、ポケットの中でピンキーリングを強く握りしめた。
陽茉梨の前では、絶対に絶望した顔は見せない。
彼女が自分のことを忘れてしまうその瞬間まで、自分は世界で一番幸せな「彼氏」でいよう。
病室に戻ると、陽茉梨が小さな寝息を立てて眠っていた。
動かないはずの右手が、布団から少しだけはみ出している。
蒼汰はその手をそっと布団に入れ直し、彼女の耳元で小さく囁いた。
「……おやすみ、陽茉梨。明日も、明後日も、ずっと側にいるからな」
窓の外では、季節外れの雨が雪へと変わり始めていた。
世界が白く塗りつぶされていく中で、蒼汰一人だけが、真っ黒な絶望と戦い始めていた。
室内は、不自然なほど静かだった。壁にかけられたレントゲン写真や、いくつもの数値が並ぶモニターが、無機質に陽茉梨の「命の期限」を刻んでいる。
「……落ち着いて聞いてください、蒼汰くん」
主治医の先生が、眼鏡を外して深くため息をついた。その表情を見ただけで、蒼汰の心臓は冷たい氷を飲み込んだように冷え切った。
「先日の発作で、病状は想定よりも遥かに早いスピードで進行しています。……残念ですが、右半身の麻痺が回復する見込みはありません。それどころか……」
先生は一度言葉を切り、蒼汰を真っ直ぐに見つめた。
「……あと一ヶ月。それが、彼女が『彼女』でいられる限界でしょう。その後は意識の混濁が進み、家族の顔も、あなたのことも、分からなくなる可能性があります」
一ヶ月。
脳裏に、あの日ひまわり畑で交わした約束が蘇る。おばあちゃんになるまで、シワシワの手になっても繋いでいようと言った、あの指先の熱。
「……嘘だろ」
蒼汰の声が、乾いた部屋に虚しく響く。
「……そんなの、短すぎる。まだ、何もしてねーよ。一緒に卒業して、大人になって……指輪だって、もっといいの買ってやるって約束したんだよ!」
蒼汰は机を叩き、叫んだ。でも、先生はただ悲しそうに目を伏せるだけだった。医学という壁の前で、彼の叫びは何の力も持たなかった。
「……このことは、陽茉梨さんには伏せておきます。彼女の精神状態を考えると、今はまだ……」
「……言わねーよ。誰が言うかよ、そんなこと」
蒼汰は診察室を出た。
廊下の窓から見える夜空は、あの日二人で見た星空と同じなのに。今の蒼汰には、一筋の光さえ見えなかった。
(……一ヶ月? 笑わせんなよ。あいつ、まだ生きたいって泣いてんだぞ)
彼は洗面所へ向かい、蛇口を全開にして冷たい水で顔を洗った。
鏡に映る自分は、幽霊のように青白く、ボロボロだった。でも、彼は自分の頬を思い切り叩いた。
「……泣くな。泣く暇があるなら、笑わせろ」
蒼汰は、ポケットの中でピンキーリングを強く握りしめた。
陽茉梨の前では、絶対に絶望した顔は見せない。
彼女が自分のことを忘れてしまうその瞬間まで、自分は世界で一番幸せな「彼氏」でいよう。
病室に戻ると、陽茉梨が小さな寝息を立てて眠っていた。
動かないはずの右手が、布団から少しだけはみ出している。
蒼汰はその手をそっと布団に入れ直し、彼女の耳元で小さく囁いた。
「……おやすみ、陽茉梨。明日も、明後日も、ずっと側にいるからな」
窓の外では、季節外れの雨が雪へと変わり始めていた。
世界が白く塗りつぶされていく中で、蒼汰一人だけが、真っ黒な絶望と戦い始めていた。


