あの日、静まり返った教室に響いた銀色のリングの音。それが、私の「日常」が砕け散った合図だった。
救急車のサイレン、遠ざかる蒼汰の叫び声、そして、無理やりこじ開けられた瞳に映る無機質な病院のライト。それ以降の記憶は、深い泥の底に沈んだように途切れている。
病院の廊下。冷たい長椅子に座り続けて三日が経った。
蒼汰は、制服のまま、一度も家には帰っていなかった。ネクタイは緩み、頬はこけ、目は真っ赤に充血している。彼の手の中には、あの時床に転がっていた、傷だらけのピンキーリングが握りしめられていた。
「……蒼汰くん。少し、座って休みなさい」
陽茉梨の母が、震える手で温かい缶コーヒーを差し出した。彼女もまた、泣きはらして声が枯れている。
蒼汰は力なく首を振った。今、この場所を離れたら、二度と陽茉梨に会えなくなるような――そんな、根拠のない恐怖が彼を支配していた。
「……おばさん。陽茉梨、昨日まであんなに笑ってたんです。……昨日、俺と一緒に指輪、選んで……おばあちゃんになるまで離さないって、約束したんです」
蒼汰の声は、枯れ木の擦れる音のように掠れていた。
「……なんで。なんであいつなんですか。俺の体温、全部あいつに分けてやったのに……魔法だって、言って笑ったのに……!」
溢れ出した涙が、握りしめたリングにこぼれ落ちる。
陽茉梨の母は、堪えきれずに嗚咽を漏らし、カバンの中から一冊のノートを取り出した。表紙には、彼女が大好きな、ひまわりの花の絵が描かれている。
「……これ、陽茉梨の部屋の机の奥にあったの。……あなたに、渡してほしいって。もし、何かあったらって……」
蒼汰は、震える指でそのノートを受け取った。
ページをめくると、そこには陽茉梨の、少し丸っこい、でも後半になるにつれて震え、乱れていった筆跡が並んでいた。
『○月○日。
今日も蒼汰に「大嫌い」って言っちゃった。
本当は、世界で一番大好きなのに。
私の病気、もう隠しきれないかもしれない。
でも、蒼汰が笑ってくれるなら、私は最後まで「意地っ張りな私」でいたい。』
『○月○日。
右手の指が、ときどき言うことを聞いてくれない。
蒼汰と手を繋いだとき、彼が私の異変に気づいていないか、怖くてたまらなくなる。
でも、彼の手はいつも魔法みたいに温かくて、私は一瞬だけ、病気のことなんて忘れちゃうんだ。』
ページをめくるたび、陽茉梨の「隠された本音」が蒼汰の胸をナイフで切り刻む。
そして、最後のページ。
そこには、あの日、学校へ行く直前に書かれたであろう、掠れた文字が残されていた。
『もしも明日、私の声が出なくなっても。
このノートが、私の代わりに「愛してる」って言ってくれますように。
蒼汰、私を忘れないで。でも、私のせいで泣かないで。
わがままな私を、最後まで「彼女」にしてくれて、ありがとう。』
「……っ、……ふざけんなよ……!」
蒼汰はノートを抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
忘れるわけがない。泣かないわけがない。
あいつは、死ぬ間際まで「意地」を張って、俺に優しくしようとしていた。
俺を傷つけないために、自分一人でどれほどの恐怖と戦っていたのか。
その時、ICUの重い扉が開いた。
「……一ノ瀬さんのご家族、中へ。……意識が戻りました」
医師の言葉に、蒼汰の心臓が跳ねた。
でも、医師の表情は決して明るいものではなかった。
「……覚悟してください。言語野に強いダメージがあります。そして……」
蒼汰は、主を待つピンキーリングをポケットにねじ込み、病室へと駆け込んだ。
そこにいたのは、たくさんの管に繋がれ、蒼白な顔で眠る、小さな、小さなひまわりだった。
「……陽茉梨。……陽茉梨!」
蒼汰が叫び、彼女の左手を握る。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、陽茉梨の瞼が動いた。
焦点の合わない瞳が、ゆっくりと蒼汰を捉える。
「……あ、……あ……」
声にならない音が、彼女の唇から漏れる。
彼女は、何かを必死に伝えようとしていた。
でも、彼女の右半身は、もう二度と、彼女の意思で動くことはなかった。
陽茉梨は、蒼汰の顔を見ると、歪んだ口元で、一生懸命に笑おうとした。
あの日、部室で交わした告白。あの日、中庭で繋いだ手の熱。
それらすべてが、残酷な現実という波に飲み込まれていく。
「……いいんだ。喋らなくていい、陽茉梨。……俺が、全部わかってるから」
蒼汰は、彼女の手のひらに自分の顔を埋めた。
ひまわりのノートに書かれた遺言。
それは、これから始まる、さらに過酷で、さらに愛おしい「戦い」の序章に過ぎなかった。
救急車のサイレン、遠ざかる蒼汰の叫び声、そして、無理やりこじ開けられた瞳に映る無機質な病院のライト。それ以降の記憶は、深い泥の底に沈んだように途切れている。
病院の廊下。冷たい長椅子に座り続けて三日が経った。
蒼汰は、制服のまま、一度も家には帰っていなかった。ネクタイは緩み、頬はこけ、目は真っ赤に充血している。彼の手の中には、あの時床に転がっていた、傷だらけのピンキーリングが握りしめられていた。
「……蒼汰くん。少し、座って休みなさい」
陽茉梨の母が、震える手で温かい缶コーヒーを差し出した。彼女もまた、泣きはらして声が枯れている。
蒼汰は力なく首を振った。今、この場所を離れたら、二度と陽茉梨に会えなくなるような――そんな、根拠のない恐怖が彼を支配していた。
「……おばさん。陽茉梨、昨日まであんなに笑ってたんです。……昨日、俺と一緒に指輪、選んで……おばあちゃんになるまで離さないって、約束したんです」
蒼汰の声は、枯れ木の擦れる音のように掠れていた。
「……なんで。なんであいつなんですか。俺の体温、全部あいつに分けてやったのに……魔法だって、言って笑ったのに……!」
溢れ出した涙が、握りしめたリングにこぼれ落ちる。
陽茉梨の母は、堪えきれずに嗚咽を漏らし、カバンの中から一冊のノートを取り出した。表紙には、彼女が大好きな、ひまわりの花の絵が描かれている。
「……これ、陽茉梨の部屋の机の奥にあったの。……あなたに、渡してほしいって。もし、何かあったらって……」
蒼汰は、震える指でそのノートを受け取った。
ページをめくると、そこには陽茉梨の、少し丸っこい、でも後半になるにつれて震え、乱れていった筆跡が並んでいた。
『○月○日。
今日も蒼汰に「大嫌い」って言っちゃった。
本当は、世界で一番大好きなのに。
私の病気、もう隠しきれないかもしれない。
でも、蒼汰が笑ってくれるなら、私は最後まで「意地っ張りな私」でいたい。』
『○月○日。
右手の指が、ときどき言うことを聞いてくれない。
蒼汰と手を繋いだとき、彼が私の異変に気づいていないか、怖くてたまらなくなる。
でも、彼の手はいつも魔法みたいに温かくて、私は一瞬だけ、病気のことなんて忘れちゃうんだ。』
ページをめくるたび、陽茉梨の「隠された本音」が蒼汰の胸をナイフで切り刻む。
そして、最後のページ。
そこには、あの日、学校へ行く直前に書かれたであろう、掠れた文字が残されていた。
『もしも明日、私の声が出なくなっても。
このノートが、私の代わりに「愛してる」って言ってくれますように。
蒼汰、私を忘れないで。でも、私のせいで泣かないで。
わがままな私を、最後まで「彼女」にしてくれて、ありがとう。』
「……っ、……ふざけんなよ……!」
蒼汰はノートを抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
忘れるわけがない。泣かないわけがない。
あいつは、死ぬ間際まで「意地」を張って、俺に優しくしようとしていた。
俺を傷つけないために、自分一人でどれほどの恐怖と戦っていたのか。
その時、ICUの重い扉が開いた。
「……一ノ瀬さんのご家族、中へ。……意識が戻りました」
医師の言葉に、蒼汰の心臓が跳ねた。
でも、医師の表情は決して明るいものではなかった。
「……覚悟してください。言語野に強いダメージがあります。そして……」
蒼汰は、主を待つピンキーリングをポケットにねじ込み、病室へと駆け込んだ。
そこにいたのは、たくさんの管に繋がれ、蒼白な顔で眠る、小さな、小さなひまわりだった。
「……陽茉梨。……陽茉梨!」
蒼汰が叫び、彼女の左手を握る。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、陽茉梨の瞼が動いた。
焦点の合わない瞳が、ゆっくりと蒼汰を捉える。
「……あ、……あ……」
声にならない音が、彼女の唇から漏れる。
彼女は、何かを必死に伝えようとしていた。
でも、彼女の右半身は、もう二度と、彼女の意思で動くことはなかった。
陽茉梨は、蒼汰の顔を見ると、歪んだ口元で、一生懸命に笑おうとした。
あの日、部室で交わした告白。あの日、中庭で繋いだ手の熱。
それらすべてが、残酷な現実という波に飲み込まれていく。
「……いいんだ。喋らなくていい、陽茉梨。……俺が、全部わかってるから」
蒼汰は、彼女の手のひらに自分の顔を埋めた。
ひまわりのノートに書かれた遺言。
それは、これから始まる、さらに過酷で、さらに愛おしい「戦い」の序章に過ぎなかった。


