一時間目の数学。窓の外からは体育の授業のかけ声が微かに聞こえ、教室内にはチョークが黒板を叩く乾燥した音だけが響いていた。
私は、右手の小指に光るピンキーリングを左手でそっとなぞった。昨日、蒼汰が「お前がどっか行かないように」と贈ってくれた、魔法の指輪。
(大丈夫。これがあるから、私はまだ、ここにいられる)
そう自分に言い聞かせて、ノートを開こうとした。
その時だった。
「一ノ瀬、そこの公式を使って例題を解いてみろ」
先生に指名され、私は「はい」と短く答えて立ち上がった。
椅子を引く音。ノートを手に取る感触。……いや、感触がない。
ガシャン、と派手な音を立てて、私の右手にあったはずのシャーペンが床に転がった。
「……あれ?」
拾おうとして右手を伸ばす。けれど、右肩から先が、まるで自分のものではない他人の肉塊のように、机の上に投げ出されたまま動かない。指先に力を入れようとしても、脳からの命令が途中で断ち切られているみたいに、ピクリとも反応しないのだ。
「一ノ瀬? どうした、体調悪いのか?」
先生の怪訝そうな声。クラスメイトたちの視線が一斉に私に集まる。
私は必死に左手で右腕を掴み、無理やり持ち上げようとした。でも、重い。鉛を詰め込まれたみたいに重くて、感覚がまったくない。
「……あ、……あ……」
声を出そうとした瞬間、喉の奥が焼け付くように熱くなった。
言葉が形にならない。口の右端が上手く動かず、よだれがこぼれそうになる。
視界が急にぐにゃりと歪み、教室の風景が万華鏡のようにバラバラに砕け散った。
「陽茉梨――!!」
静寂を切り裂いたのは、隣の列に座っていた蒼汰の絶叫だった。
ガタッ、と椅子を跳ね飛ばす凄まじい音。彼は教卓の先生も、驚くクラスメイトも突き飛ばすような勢いで私に駆け寄り、崩れ落ちる私の体を間一髪で抱きとめた。
「陽茉梨! しっかりしろ! おい、目を開けろよ!」
蒼汰の腕の中。彼の制服の匂いが鼻をかすめる。
いつもなら安心するその匂いが、今は遠い世界の出来事のように感じられた。
私の右側の視界は真っ白に染まり、彼の顔が半分しか見えない。残された左目で見つめる蒼汰の顔は、見たこともないほど蒼白で、涙を溜めて歪んでいた。
「……そ、……た……」
やっとの思いで指先を動かそうとした。
でも、その瞬間。
私の右手の小指から、昨日あんなに喜んで嵌めたばかりのピンキーリングが、スルリと、あまりにも簡単に抜け落ちた。
カラン……、カラン……。
静まり返った教室の床に、銀色の音が虚しく響く。
一生外さないと約束した指輪が、主を失ったかのように転がっていく。
私は、それを見て叫びたかった。拾って、と言いたかった。
でも、指先ひとつ動かせない。
「陽茉梨! 嘘だろ、待てよ、行くな!」
蒼汰が私の冷たくなった右手を、自分の両手で包み込んで、必死に温めようとする。
「魔法だ」と言って笑ってくれた、あの熱すぎるほどの手。
でも、今の私には、その熱さえもう届かない。
「……いやだ。……離したくない、蒼汰……!」
心の中で叫んだ。
せめて、さよならだけは言わせて。
でも、私の意識はそこで重い鉛の海へと沈んでいった。
私は、右手の小指に光るピンキーリングを左手でそっとなぞった。昨日、蒼汰が「お前がどっか行かないように」と贈ってくれた、魔法の指輪。
(大丈夫。これがあるから、私はまだ、ここにいられる)
そう自分に言い聞かせて、ノートを開こうとした。
その時だった。
「一ノ瀬、そこの公式を使って例題を解いてみろ」
先生に指名され、私は「はい」と短く答えて立ち上がった。
椅子を引く音。ノートを手に取る感触。……いや、感触がない。
ガシャン、と派手な音を立てて、私の右手にあったはずのシャーペンが床に転がった。
「……あれ?」
拾おうとして右手を伸ばす。けれど、右肩から先が、まるで自分のものではない他人の肉塊のように、机の上に投げ出されたまま動かない。指先に力を入れようとしても、脳からの命令が途中で断ち切られているみたいに、ピクリとも反応しないのだ。
「一ノ瀬? どうした、体調悪いのか?」
先生の怪訝そうな声。クラスメイトたちの視線が一斉に私に集まる。
私は必死に左手で右腕を掴み、無理やり持ち上げようとした。でも、重い。鉛を詰め込まれたみたいに重くて、感覚がまったくない。
「……あ、……あ……」
声を出そうとした瞬間、喉の奥が焼け付くように熱くなった。
言葉が形にならない。口の右端が上手く動かず、よだれがこぼれそうになる。
視界が急にぐにゃりと歪み、教室の風景が万華鏡のようにバラバラに砕け散った。
「陽茉梨――!!」
静寂を切り裂いたのは、隣の列に座っていた蒼汰の絶叫だった。
ガタッ、と椅子を跳ね飛ばす凄まじい音。彼は教卓の先生も、驚くクラスメイトも突き飛ばすような勢いで私に駆け寄り、崩れ落ちる私の体を間一髪で抱きとめた。
「陽茉梨! しっかりしろ! おい、目を開けろよ!」
蒼汰の腕の中。彼の制服の匂いが鼻をかすめる。
いつもなら安心するその匂いが、今は遠い世界の出来事のように感じられた。
私の右側の視界は真っ白に染まり、彼の顔が半分しか見えない。残された左目で見つめる蒼汰の顔は、見たこともないほど蒼白で、涙を溜めて歪んでいた。
「……そ、……た……」
やっとの思いで指先を動かそうとした。
でも、その瞬間。
私の右手の小指から、昨日あんなに喜んで嵌めたばかりのピンキーリングが、スルリと、あまりにも簡単に抜け落ちた。
カラン……、カラン……。
静まり返った教室の床に、銀色の音が虚しく響く。
一生外さないと約束した指輪が、主を失ったかのように転がっていく。
私は、それを見て叫びたかった。拾って、と言いたかった。
でも、指先ひとつ動かせない。
「陽茉梨! 嘘だろ、待てよ、行くな!」
蒼汰が私の冷たくなった右手を、自分の両手で包み込んで、必死に温めようとする。
「魔法だ」と言って笑ってくれた、あの熱すぎるほどの手。
でも、今の私には、その熱さえもう届かない。
「……いやだ。……離したくない、蒼汰……!」
心の中で叫んだ。
せめて、さよならだけは言わせて。
でも、私の意識はそこで重い鉛の海へと沈んでいった。


