意地っ張りな私たちが、神様に許された最後の100日間

陽茉梨の部屋は、いつもほんのりと日向のような匂いがする。
隣でノートを広げる彼女の横顔を、俺は勉強を教えるふりをして、何度も盗み見ていた。
(……細くなったな、また)
ブラウスの襟元から覗く鎖骨が、以前よりずっと浮き出ている。
あいつは「ダイエットだよ」なんて笑ってごまかすけど、そんな嘘、幼馴染の俺に通じるわけがない。
俺は、陽茉梨の右手を自分の掌で包み込んだ。
驚いたように俺を見上げる、大きな瞳。その瞳の中に、必死に「普通」を演じようとしている光が見えて、胸の奥がギュッとかき乱される。
「……指、冷たいな」
そう口に出した瞬間、陽茉梨が一瞬だけ、強張った。
ほんのわずかな反応。でも、俺は見逃さなかった。
俺が指を絡めたとき、彼女の薬指だけが、俺の熱を押し返してこない。まるで、そこだけ魂が抜けてしまったみたいに、力なく俺の指に預けられている。
(気づいてない、わけないよな)
陽茉梨は、俺の手を握り返して笑った。
「……蒼汰の手が温かいから、大丈夫」
その笑顔が、あまりにも綺麗で、あまりにも儚くて。
俺は、自分の心臓が握りつぶされるような痛みに襲われた。
俺は知っている。
夜、陽茉梨の家の前を通るとき、彼女の部屋の電気がいつまでも消えないこと。
時々、苦しそうな咳き込む音が漏れてくること。
そして、あいつが机の引き出しに、ひまわり柄のノートを隠していることも。
全部、気づいてる。
でも、俺がそれを指摘したら、陽茉梨の「普通」が壊れてしまう。
あいつが必死に守ろうとしている「幸せな日常」を、俺が奪うわけにはいかない。
(……行かせねーよ。どこにも)
俺は、繋いだ手にさらに力を込めた。
もし魔法が使えるなら、俺の体温を全部あいつに分けてやりたい。
俺の寿命を半分削って、あいつの薬指に血を巡らせてやりたい。
「……蒼汰。……もし私が、すごくおばあちゃんになっても、こうして手を繋いでくれる?」
陽茉梨が、すがるような目で聞いてきた。
俺はわざと茶化して、彼女の指先にキスを落とした。
言葉にしたら、涙がこぼれそうだったから。
「当たり前だろ。……シワシワの手になっても、俺がずっと握ってやるよ」
嘘じゃない。
たとえあいつの手が氷みたいに冷たくなっても、俺の熱で溶かしてやる。
あいつが忘れるなら、俺が全部覚えててやる。
俺は、自分の財布の奥に入れたプリクラを、ポケットの上からそっと触れた。
【 ずっと、一緒。 】
その文字が、今の俺には、神様への必死の抗いに見えた。
「……帰るわ。……また明日な、陽茉梨」
部屋を出て、夜の冷たい風に当たった瞬間、ようやく肺に空気が入った気がした。
自転車を漕ぎ出し、俺は一人で呟く。
「……明日も、笑ってろよ。……俺の前だけでいいから」
俺の知らないところで、砂時計が音を立てて落ちている。
その最後の一粒が落ちるまで、俺は世界で一番の「嘘つきなヒーロー」でいようと決めた。