桜が散るころ、君に恋する


第⼀章 桜が散る頃

春の陽が差し込む教室の隅、朝霧伊織は無⾔で窓の外を⾒つめていた。

校庭の桜はまだ満開にはほど遠く、枝先に淡い桃⾊の蕾を揺らして いる。

⾵が吹くたびに、窓がかすかに軋む⾳がした。

教室のざわめきは遠く、どこか現実味のない⾳として⽿をかすめて いく。

彼の席は、教室のいちばん後ろの窓際。

静けさを好む伊織にとっては、好都合な場所だった。

ふと、弾けるような笑い声が聞こえた。

伊織はゆっくりと⾸を傾け、その声の⽅へ視線を移す。

そこにいたのは、⽩瀬凪沙だった。

笑っていた。

柔らかな髪を揺らして、眩しいほどの笑顔で。

誰かの冗談に笑って、誰かの軽く⼿を叩いて、また笑う。

その姿を⾒て、伊織は⼼の中で、ぽつりと呟いた。 ――太陽みたいな⼈だ。⽩瀬凪沙は。

彼⼥の周りには、⾃然と⼈が集まる。

その明るさに引き寄せられるように、楽しげな声が重なっていく。

まるで、そこだけが別の世界のようだった。

眩しくて、温かくて、⾃分には触れられない世界。

伊織はもう⼀度、静かに⽬を伏せた。 ――僕とは、正反対の世界にいる⼈。

の、はずだったのに。

* * * 

伊織は今、⼤きな病院の待合室の⽚隅に座っていた。

⼀ヶ⽉前、階段を踏み外して軽く捻挫をし、今⽇はその最終診察 だった。

診察はあっさりと終わり、簡単なチェックと湿布の処⽅だけ。

受付で保険証を受け取ると、伊織はそのまま帰ろうとした。

……が、ふと⽴ち⽌まった。

「……喉、乾いたな。」

⾃分でもなぜかはわからなかった。

ただ、無性に喉が渇いたのだ。

⾜を運んだのは、ロビーの隅にある⾃販機。

選んだのは、なんの変哲もないミネラルウォーターだった。

ガコン、と落ちる⾳。

屈んで取り出そうとした、そのとき――

「……ん?」

伊織の⽬に留まったのは、⾜元に落ちていた薄い冊⼦のようなもの。

茶⾊いカバー。

それは誰かの⼿帳らしく、ページが開かれたままになっていた。

何気なく拾い上げたその瞬間だった。

流れるような、美しい⽂字が視界に⾶び込んでくる。

まるで詩の冒頭のように、そこに綴られていたのは――

『余命が3ヶ⽉らしい。3ヶ⽉後には、死んじゃうんだって。』

⽂字を⽬で追った瞬間、伊織の時間が⽌まった。

何かの冗談かとも思った。

⽇記の⼀節か?⼩説の下書き?

でも――――その筆跡には、あまりにも真実味があった。

⼿が震える。

それなのに、⽬が離せなかった。

誰のものだろう。

こんな⾔葉を書いたのは、誰―― 

「ごめんなさい! それ私ので――…す?」

突然、背後から声がかかる。

伊織が振り返ると、そこには⾒覚えのある少⼥が⽴っていた。

⽩瀬凪沙。
――教室で、笑っていた太陽のような彼⼥。

その綺麗な顔からすっと⾎の気が引いていくのが分かった。

⼿を伸ばしかけたまま固まり、⼝だけが何かを⾔おうとパクパクと

動いている。

伊織は静かに、⼿にした⼿帳を⾒つめたあと、彼⼥に視線を戻す。

「……これ、⽩瀬さんの?」

そっと⼿帳を差し出すと、凪沙は苦笑いを浮かべ、開かれたページを

⾒たまま、ぽつりと呟いた。

「……あっちゃー」

そう呟いてから、突然伊織の⼿⾸を掴んだ。

「ちょっと来て!」

「は!?」

反射的に引っ張られ、伊織はよく分からないままその⼿が導く場所に ついて⾏った。

病院の⾃動ドアが開き、春⾵がふわりと吹き抜ける。

通りの向こうにある⼩さなカフェ。

その扉を凪沙が迷いなく押し開けた。

カラン、という鈴の⾳が、どこか遠くに響いた。

カフェの席に着いた凪沙は、さっきまでの⻘ざめた顔が嘘のように、 ぱっと明るい表情に戻っていた。

メニューを開くなり、迷いなく指をさす。

「フルーツタルトと、カモミールティーください!」

その声は、まるでさっきまでのやりとりを全て忘れたかのようだった。

店員が伊織に視線を向けると、彼はわずかに⼾惑いながらも答える。

「……コーヒーで。」

注⽂を受けた店員が離れていくと、凪沙は勢いよく体を伊織の⽅へ 向きを変える。

「……ゔっ、ゔん!」

⼤袈裟に咳払いをひとつして、確認するような声で⾔った。

「伊織くん、だよね?」

思わず、伊織のまぶたがピクリと動いた。

――名前、知ってたんだ。

「あぁ……うん、朝霧伊織。

……⽩瀬さん、で合ってるよね?」

すると、凪沙はいつもの太陽のような笑顔で頷いた。

「そうそう。⽩瀬凪沙!」

ちょうどその時、注⽂していたケーキと紅茶がテーブルに運ばれてくる。

凪沙は運ばれてきたフルーツタルトを、まるで宝物のように⾒つめて、 ⽬を細めた。

伊織の元にもコーヒーが置かれる。

無⾔でカップを持ち、⼀⼝だけ⼝に含んだ。

その間、凪沙は紅茶を静かにひと⼝啜ったあと――まるで冗談でも ⾔うように、明るい声で告げた。

「⼿帳の中⾒たでしょ。びっくりした?」

⾔葉が軽すぎて、冗談のようにしか聞こえなかった。

「私、あと3ヶ⽉で死んじゃうんだぁ〜」

その⾔葉が嘘ではないと、伊織にはすぐにわかった。

コーヒーを持った彼の⼿が、⽌まる。

カップの中で、⿊い液⾯がかすかに揺れた。

「末期の肺がん、なんだって。」

笑っていた。

けれど、それは⾵が吹けば消えてしまいそうなほどに儚い笑顔だった。

「治療しても、もう治らないとこまで来ててさ。お医者さんには

助からない確率のほうが⾼いって⾔われちゃった。」

まるで、次の授業の時間を確認するような軽い⼝調で、凪沙はさらりと

⾔ってのけた。

伊織は、⾔葉が出なかった。

その沈黙のなか、凪沙はふと⽬線を上げて、真っ直ぐに彼を⾒た。

「……でも、皆には⾔わないでほしいの。秘密にしててほしい。」

伊織を⾒つめる瞳は、冗談めかした明るさとは裏腹に、 どこか切実だった。

「お願い、朝霧くん。」 

彼⼥は今、この“秘密”を、笑いながら差し出してきた。

春の陽に透けるような、淡くて儚い、命の話を――

* * *

店内に、カモミールティーのほのかな⾹りが漂っていた。

外では春⾵が、まだ咲ききらない桜の枝を揺らしている。

凪沙の声は、さっきまでの明るさをそのままにしていたけれど、 伊織には、その奥にある本当の声が聞こえた気がした。

――助けて、ではなく、ただ、そっとしておいてほしいという願い。

その⾔葉の重さを、どう受け⽌めていいのかわからずに、数秒の沈黙が落ちた。

伊織は、コーヒーのカップをそっと置いた。

そして、⽬線を落としたまま、ぽつりと⾔った。

「……⾔わないよ。⾔う相⼿もいないし。」

その⼀⾔に、凪沙の表情がパッと緩んだ。

まるで、深く張り詰めていた空気が⼀瞬でほどけたように。

「ほんと!? 

良かったぁ〜〜〜〜!!!ありがとう、伊織くん!」

そう⾔って、凪沙は弾む声と⼀緒に、伊織の⼿をぱっと取った。

あたたかくて、華奢な⼿。

不意を突かれた伊織は、わずかに⽬を⾒開いた。

でも、そのまま凪沙の笑顔を⾒つめ返す。

彼⼥は⼼から嬉しそうに笑っていた。

その笑顔が本物なのかどうか、彼にはもう分からなかった。

けれど――

それでも、いま⽬の前で笑っている彼⼥の⼿の温もりが、

たしかにそこにあるということだけは、はっきりと感じていた。

凪沙の笑顔が、ほんの数秒前よりも少しだけ近く感じられた気がした。

けれど――伊織の中で何かがチリチリと焼けるように疼いていた。

「……」

彼は無⾔で、⼿にしていたコーヒーを⼀気に飲み⼲した。

少し熱かったけれど、それすらも今はどうでもよかった。

カップを置き、ゆっくりと⽴ち上がる。

ジャラ……とポケットの中で⼩銭が⾳を⽴てる。

テーブルに置かれたカモミールティーの隣に、コーヒー代を

そっと置いた。

それから、凪沙を⼀瞥して――

「……じゃあ。」

短く、それだけを⾔って、伊織はカフェをあとにした。

ドアの鈴が軽く鳴る。

その⾳は、まるで何かが⼩さく終わる⾳のようだった。 

凪沙は、テーブルに置かれたコインを⾒つめながら、

⼩さく⽬を細めた。

その笑顔には、少しの寂しさと、ほんの少しの安堵が混じっていた。

* * *

翌朝。

何事もなかったかのように、伊織はいつも通り学校に来た。

教室の扉を開けると、いつもと同じ雑談、いつもと同じ笑い声が、

変わらない⽇常の空気としてそこにあった。

彼は特に誰とも⽬を合わせることなく、⾃分の席――教室の⼀番後ろ、

窓際の席へと向かう。

椅⼦を引いて座る。

鞄を⾜元に置き、頬杖をつきながら、無⾔で窓の外を⾒つめた。

昨⽇と同じ景⾊。

けれど、昨⽇とはどこか違って⾒えた。

桜の花が、ほんの少しだけ開き始めていた。

⾵が吹けば、すぐに散ってしまいそうなほど、か細く咲いている。

⾃販機の前で拾った⼿帳。

あのカフェで聞いた、まるで嘘みたいな⾔葉。

『私、3ヶ⽉後に死ぬんだぁ〜』

伊織は⽬を閉じ、深く息を吐いた。

思い返すたびに、その笑顔が胸の奥をじわりと締めつける。

けれど――

彼は誰にもそのことを話さなかった。

何も⾒なかったふりをして、何も聞かなかったふりをして、

ただ静かに窓の外を⾒ていた。

その瞳の奥だけが、昨⽇のままで⽌まっている。 

* * *

気づけば、1⽇はあっという間に過ぎていた。

誰かが笑って、誰かが騒いで、 誰かが些細なことで喧嘩して、また笑って――

それを、伊織はその輪の外から眺めていた。

まるで、⾃分だけが⼀歩外側に⽴っているような、そんな感覚のまま。

やがてチャイムが鳴り、放課後の時間が始まる。

伊織は、鞄を机に置いたまま、ゆっくりと⽴ち上がった。

美化委員としての⾃分の役割――校舎前の花壇の⼿⼊れが、

今⽇も待っている。 

校舎の影が⻑く伸び始める時間。

花壇には誰もおらず、⾵の⾳と⼟の匂いだけがそこにあった。

伊織は黙って膝をつき、シャベルで⼟を軽く掘り返し、

咲き始めたパンジーの根元に、丁寧に⽔をやる。

花は、静かに咲いていた。

何も⾔わず、ただそこに、在る。

だからこそ、伊織は花や草⽊が好きだった。

「……」

伊織はふと、昨⽇の凪沙の⾔葉を思い出す。

軽く笑いながら⾔ったあの声が、この静かな⼣⽅にふっと蘇ってきた。

あんな顔で、あんな声で、あんなことを⾔うには、

どれほどの覚悟が要るんだろう。

シャベルを⽌め、伊織は少しだけ空を⾒上げた。

春の空はまだ⾼く、少し冷たく、どこか泣きそうな⾊をしていた。

パンジーの根元に最後のひとしずくを落としたときだった。

「あーー! ここにいたーーー!!」

唐突な騒々しい⼤声が、⼣暮れの校舎前に響きわたる。

誰かがこちらへ⾛ってくる⾳。ぱたぱたと軽い⾜⾳。

伊織がゆっくりと振り返ると――

そこには、スカートの裾を揺らしながら息を切らした⽩瀬凪沙の姿が

あった。

額にかかる栗⾊の髪、頬はほんのり⾚く染まっている。

伊織は驚いたように眉を上げ、思わず⼝を開いた。

「……どうかした?」

凪沙は、にへっと笑うと、両⼿を広げて⾔った。

「ずっと探してたんだよ〜〜〜!!

伊織くん、どどこにもいないんだもん!」

そのまま、近くの段差にふっと腰を下ろした。

地⾯に落ちかけた⼣陽が、彼⼥の頬を橙⾊に染めていた。

伊織は、シャベルの⼟を払うと、⼩さく問いかける。

「……僕に、何か⽤?」

凪沙は⾸をこてんと傾けたあと、満開のような笑顔を咲かせた。

「話したくて!」

その笑顔は、昨⽇のあの⾔葉を⼝にした⼈と同じだなんて思えない ほどまっすぐで、あたたかくて、春の太陽のようだった。

⾵が、花壇の花を優しく揺らした。

「……なんで、わざわざ僕?」

伊織が⼿を⽌めて⾸を傾げる。

その声には、ほんの少しだけ警戒が混じっていた。

凪沙はその様⼦に気づいているのかいないのか、

くすっと⼩さく笑うと、少しだけ顔を寄せて――

「だって私の病気のこと家族以外で知ってるの、伊織くんだけ なんだもん!」

いたずらっぽい笑顔で、

でもその⽬だけは、どこか少し寂しげだった。

「伊織くんの前なら、素の私でいられるかなぁ〜って思って!」

その⾔葉に、伊織は視線を逸らしながら、ぽつりと呟く。

「……ああ、そういうこと。」

それだけ⾔うと、また静かに花壇へと⽬を戻した。

凪沙も、彼につられるように視線を下げる。

咲きかけのパンジー、背の低いスノードロップ、

⼟の中から芽を出したばかりのクロッカスの蕾。

そして、沈黙の中で――

「わあっ……!」

凪沙が、ぱっとひまわりみたいな笑顔を咲かせた。

「綺麗〜!!」

感嘆の声に、伊織の⼿がほんのわずかに⽌まる。

「これ、伊織くんが⼿⼊れしてるの? 

パンジーに、スイセン、クロッカスと、スノードロップもある!」

⽬を輝かせながら、ひとつひとつ花の名前を挙げる凪沙に、

伊織は少し驚いたように⽬を細めた。

「……花、詳しいんだね。」

すると凪沙は、少し照れくさそうに肩をすくめた。

「⼊院してた頃、⾊んな⼈がお⾒舞いでお花持ってきてくれたの。

最初は名前も知らなかったんだけど、暇すぎて調べてみたら

いつの間にかハマっちゃったんだぁ〜。」

⾵がそよぎ、花壇の花が⼩さく揺れる。

その⾵に吹かれながら、伊織は胸の奥に⼩さなチクリとした痛みを

覚えた。

だけど、その痛みを押し殺すように、淡々と応える。

「……そうなんだ。」

それだけ。

まるで、何でもないことを聞いたような声で。

けれど、伊織の⼿元には――

花を撫でる指先にだけ、その“揺れ”が微かに滲んでいた。 

* * *

そして――

あの⽇から、数⽇が過ぎた。

放課後の時間、校舎前の花壇に並ぶ⼆つの影は、いつしか“いつもの

光景”になっていた。

凪沙は変わらず明るく、伊織は変わらず無⼝だけれど、そのあいだ

には、確かな温度と、静かな会話があった。

その⽇も、空が少しずつ⼣焼け⾊に染まりはじめたころ。

パンジーの葉に付いた埃を指で払っていた凪沙が、ふと顔を上げた。

「ねえ、伊織くん。」

「ん?」

「私、良いこと思いついちゃった。」

少し悪戯っぽく笑いながら、⽴ち上がった凪沙は、⼿をパンパンと

払ってからくるりと振り返った。

「死ぬまでにやりたいことリスト、作ってみたい!」

伊織は少し驚いたように彼⼥を⾒た。

けれど以前のように、沈黙したり、⾔葉に詰まることはなかった。

ほんの少し、⽬を細める。

「……思ったより、ずいぶんベタだね。」

「でしょ? えへへっ」

凪沙は笑って、ポケットから何かを取り出す。

「でもさー、こういうのって⼀⼈じゃ浮かばないんだよね〜。

だから……」

と、伊織の腕を遠慮なく引っ張る。

「伊織くんも協⼒して! ほら、図書室⾏こ!」

「は……? いや、なんで図書室……」


「ペンがある! あと静か! あと空いてる!」

「理由が雑……」

そう⾔いながらも、伊織は拒まなかった。

凪沙の⼿のぬくもりが、あの時よりも少しだけ⾃然に感じられていた。

* * *

図書室は、放課後の静けさに包まれていた。

ガランとしたその空間で、2⼈は奥の窓際の席に並んで座る。

ノートを開き、凪沙がペンを構える。

「じゃあ、まず⼀個⽬は……」

凪沙のペンが、紙の上を軽やかに⾛る。

伊織は呆れたように息をつきながらも、笑って、それを⾒つめていた。

彼の中ではもう、「死ぬ」とか「病気」とか、

そういった⾔葉が特別な響きを持たなくなっていた。

凪沙にとってそれは、悲しみや憎しみだけで語るものではないのだと、

数⽇を共に過ごす中で、⾃然と理解していた。

彼⼥は、ただひたすらに「今」を謳歌している。

終わりが近いというだけで、それ以外は、普通の――いや、誰よりも

真っ直ぐに“今”を⽣きていた。


そして――

凪沙のノートには、新しい「やりたいこと」が、静かに増えていった。

凪沙が⽬を輝かせながら⾔った。

「まずはこれ!⾃転⾞で⼆⼈乗り!」

「道路交通法違反……」

と伊織は苦笑しつつも、ペンを取りその横に

【1. ⾃転⾞で⼆⼈乗り】と書き込む。

「次はね、制服のまま、学校サボってどこか遠くに⾏く!」

「そんなことしたら、バレて怒られるでしょ」

「そんなの後で謝ればいいの!」

凪沙はいたずらっぽく笑う。

「浴⾐で花⽕⼤会も⾏きたいなあ!」

「夏限定だね。楽しそうだけど、⼈混み嫌いじゃなかった?」

「それはまぁ、なんとかなるって!」

凪沙は肩をすくめた。

「夜の校舎に忍び込むの、ちょっと怖いけどやってみたい!」

「肝試しみたいなの好きだね」

「だって⾯⽩そうじゃん!」

「それから思い切ってイメチェン!」

「急にハードル⾼くなるじゃん……」

「いいの!⼈⽣⼀度きりだもん!」

「タイムカプセルを埋めるのもいいよね」

「未来の⾃分へのメッセージ?」

「うん、だから⼼を込めて書かなくちゃ!」

「⽴⼊禁⽌の屋上でお弁当⾷べるのも憧れ!」

「屋上って結構危ないよ?」

「だからこそ特別感があるんじゃん!」

「恋愛漫画でよくある寝落ち通話もしてみたい」

「寝落ち通話……それ、好きな⼈とやるから良いんじゃないの?」

「ええ〜? そんなことないよ〜〜!」

「⽝カフェにも⾏きたいな」

「動物、好きなんだ」

「うん!もふもふに癒されたいの!」

「最後はこれ!観覧⾞の頂上で誰かと景⾊を眺める!」

「誰かと、か……」

「うん、やっぱり誰かと⼀緒がいいよ。⼀⼈は寂しいし。」

項⽬をひとつひとつ読み上げるたび、凪沙の顔は輝き、

笑い声が図書室に優しく響く。

伊織はそんな凪沙の横顔をじっと⾒つめていた。

その笑顔の裏に隠れた、どこか儚げな影に、⾔葉にならない感情が

胸を締めつける。

“彼⼥の時間は、いつか終わるのだ”――

それでも、この瞬間は確かに「今」であり、凪沙の笑顔は

そこに確かに⽣きていた。

伊織は凪沙のはしゃぐ声を聞きながら、ふと胸の奥に込み上げてきた

感情に耐えられなくなった。

「……じゃあさ」

「ん?」

凪沙が期待に満ちた⽬で伊織を⾒上げる。

「それ、⼀緒に全部叶えよう。」

その⾔葉は勢いに任せて放たれたものだったけど、どこか揺るがない

決意が含まれていた。

凪沙の瞳がぱっと輝き、

「っ、ほんと!?」

と無邪気に笑った。

だけど伊織は、彼⼥のその笑顔の奥に隠された、儚さと切なさが⼼を

締めつけていた。

第⼆章 ひとつめ


「よしっ、じゃあ⼿始めに! ⼀個⽬、⾃転⾞で⼆⼈乗り!」

放課後の校舎前、凪沙は勢いよく⽴ち上がり、制服のスカートをぱんと

払うと、弾むように駐輪場へと歩き出す。

伊織は少し遅れてそのあとを歩いていたが、数歩先で凪沙が突然、

ぴたっと⽌まった。

「――あっ!!」

振り返るその顔は、完全に忘れてた!という⾊に染まっている。

「私、電⾞通学だった……!」

その場の空気が⼀瞬抜けるように静まり返る。

伊織はそれを聞くと⾯⾷らったような表情をした。

「……僕も電⾞通学。だから――」

「「⾃転⾞、ないね……」」
2⼈、⽬を合わせて⼀瞬の沈黙。

それから、ふっと吹き出すように笑い合った。


「う〜ん、どうしようか」

凪沙が⾸をかしげて尋ねると、伊織はニヤッと⼝⾓を上げる。

いたずらを思いついたような、でもどこか優しい笑み。

「こっちきて」

⾔って、歩く⽅向を変える。

「え、なになに?こっちになにかあるの?」

凪沙が追いかけるように並ぶと、伊織は何も⾔わずにそのまま校務員室

の前で⾜を⽌めた。

ガラガラ……と扉を開けると、中では校務員の男性が棚を修理して

いた。
「すみません。

校内にある廃棄予定の⾃転⾞って、お借りしてもいいですか?」


不意を突かれたように顔を上げた校務員さんは、少し驚いた様⼦

だったが――

「ああ、裏にあるやつなら使っていいよ。鍵もついてる。」

そう⾔ってくれた。
裏の駐輪スペースに案内されると、そこには錆びついた⾃転⾞が数台。

けれどその中に、⼀台だけ、⽐較的綺麗な⽔⾊の⾃転⾞がぽつんと

置かれていた。


「これ、乗り捨てられてたやつなんだって。まだ全然乗れるのに。」

「もったいないねぇ。」

伊織がサドルを軽く叩くと、キィ……という⾳がした。

凪沙は⽬を輝かせて、⾃転⾞の後ろに回り込む。

「すごい!これで⼆⼈乗りできるね!」

「……まあ、⼀応法律違反だけどね」

「内緒だよ?」

凪沙がいたずらっぽくウィンクしてみせた瞬間、

まるで空気が柔らかくなったように、伊織も⼩さく笑った。

ガタン、と軽い⾳を⽴てて、⾃転⾞のスタンドが外れる。

「じゃ、乗って。」

そう⾔う伊織に、凪沙は「はーい!」と元気よく返事をして、

後ろの荷台にくるりと横向きに腰掛けた。

制服のスカートの裾を気にしながら、バランスを取りつつ――

「伊織くん、揺らさないでよ?」

なんて笑いながら、前にいる伊織の背中に、そっと⼿を回した。

「じゃあ、⾏くよ?」

ゆっくりとペダルを踏み込む。

⾃転⾞が動き出した途端、

「きゃーー!!あははっ、うわっ、速〜〜〜い!!」

凪沙はキャーキャーと歓声をあげて、⾵に乗ってはしゃぎ出した。

その声は、⼣暮れの校舎裏に響く⼩さな鐘のように、

澄んでいて、明るくて、どこか切なかった。

冷たい秋⾵が、彼⼥の栗⾊の髪をふわりと舞わせる。

⼣焼けに照らされた凪沙の笑顔は、まるで陽だまりのように暖かく、

でもどこか、“今だけ”のものに⾒えた。

伊織は振り返らないまま、少し笑ってペダルをこぐ。

その背中にしがみつくようにして、凪沙も笑い続けた。

何も⾔わなくても、
この時間が、ふたりにとって、どれほど尊いものかはわかっていた。
⼣⽇に染まる空。
伸びる影。
通り過ぎる⾵景。
すべてが、「この瞬間の奇跡」をそっと祝福しているようだった。 
その⽇の⾵の匂いと凪沙の笑い声は、伊織の胸の奥に、
深く刻み込まれていった。
「意外と楽しいね」
前を⾒たまま、ぽつりと伊織がつぶやいた。
その⾔葉に、後ろでしがみついていた凪沙の顔がぱっと明るくなる。
「でしょでしょ!? 最⾼じゃない!?」
⾵に煽られながらも、声が弾む。
そして、何かを思い⽴ったように、凪沙は制服のポケットから
スマホを取り出した。
「ちょ、まさか――」
「いぇ〜い!」
にっこりと笑って、伊織の横顔が⼊るようにスマホを掲げる。
「今⾛ってるんだけど!?」
「だからこそ、『今』でしょ〜?」
⾔いながら、⾃転⾞の後ろからぐいっと⼿を伸ばして、⾃撮りの
シャッターを切った。
カシャ。
⼣焼けの光が、スマホのレンズに柔らかく差し込んで、
画⾯の中には、⾵になびく髪と、半分⼾惑いながらも笑っている
伊織の顔が写っていた。
「撮れた!すっごくいい感じ!」
凪沙は嬉しそうに画⾯を覗き込みながら、⼩さく笑った。
そんな凪沙の笑顔につられて、伊織も思わず吹き出す。
「……ふはっ。バッカみたいだね、僕達。」
「うん、でも、め〜〜〜〜〜っちゃ楽しい!」
そのやりとりのすべてを、⼣⽇が優しく包んでいた。
⾵が通り過ぎるたびに、凪沙の髪が伊織の頬にふわりと触れる。
笑い声が、空に溶けていく。
“今”という時間が、愛おしくてたまらなくなるような瞬間だった。
⽇がすっかり傾き、空は淡い群⻘と茜⾊のグラデーションに染まっていた。
満⾜するまで、笑いながら町をぐるぐると⾃転⾞で乗り回した
2⼈は、ようやく学校に戻り、裏の校務員室前で⾃転⾞を返却した。
「ありがとうございました」
そう⾔って校務員さんに頭を下げた伊織の隣で、凪沙はずっと笑顔
だった。
けれどその瞳の奥には、ほんの少しの名残惜しさがあった。
校舎の裏⼿のベンチに腰掛けると、凪沙はカバンからあの時の⼿帳を
取り出し、ページを開く。
「はいっ!」
と、伊織に⾚ペンを差し出す。
「せっかくだから、伊織くんがやってよ」
「……僕?」
「うん、⼀緒にやってくれたし!記念すべき1つ⽬!!」
少し⼾惑いながらも、伊織はペンを受け取った。
《1. ⾃転⾞で⼆⼈乗り》という⽂字の横に、
ゆっくりと、でもまっすぐに――
スーッと、⾚い横線を引いた。
「……これで、⼀つ⽬クリアだね」
そう⾔って笑う凪沙は、どこか嬉しそうで、
でも少しだけ寂しそうだった。
⾵が吹いて、ページがふわりとめくれる。
まだまだたくさん、叶えることはある。
でも――その“残り”という⽂字が、少しだけ胸を締めつけた。
それは、ほんのささやかで、だけどかけがえのない、命の記録だった。
校⾨を出て、いつもの駅へと向かう下校路。
秋の⼣暮れが、じんわりと街をオレンジに染めていた。
「今⽇の伊織くん、すっごい楽しそうだった!」
「……そう?」
「うん、めちゃくちゃ笑ってたもん!」
凪沙は軽やかに笑いながら、スカートのすそをつまんで⼩さくくるりと
回る。
伊織は少しだけ肩をすくめた。
「でもたしかに、ああいうの、意外と楽しかった」
「でしょ〜?」
ごく普通の、どこにでもあるような放課後の雑談。 
だけど――その“普通”は、突然崩れる。
ふと、凪沙の笑い声が⽌まった。
横を歩いていたはずの彼⼥が、息を吸い込んで、
その場にしゃがみ込んでいた。
「っ……い゙っ、」
「……⽩瀬?」
伊織が驚いて振り向くと、
凪沙は胸元を押さえ、顔をしかめて、かすかに震えていた。
「っ、薬……っ」
か細い声で、鞄の中を指さす。
伊織はすぐにしゃがみ込み、震える⼿から鞄を受け取って中を探る。
ポーチの中にあった⼩瓶と、⼩さな⽔筒を⾒つけると、迷わずそれらを
取り出し凪沙に⼿渡した。
凪沙は震える指で薬を取り出し、⽔で流し込んだ。
数秒間――ただ、彼⼥が息を整えるのを待つ。
その間、伊織は何も⾔えずに、ただ隣にいた。
少しずつ、凪沙の呼吸が落ち着いていく。
「……っ、ふぅ....。ごめんごめん、もう⼤丈夫。」
ようやくそう⾔った彼⼥は、
顔⾊はまだ少し⻘⽩いままなのに、無理やり笑おうとしていた。
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
「……いや、こっちこそ。」
「ほんと、伊織くんいてくれて良かったぁ……。
⼀⼈だったら、ちょっとヤバかったかも」
苦笑しながらそう⾔う凪沙を⾒て、
伊織の胸がぎゅっと締めつけられる。
ほんの数分前まで、⼀緒に笑っていたその⼈が、
今は薬を飲んでなんとか呼吸を取り戻している。
“限られた時間”――
その⾔葉が、ぐるぐると伊織の中を回っていた。
けれど、凪沙はもう⽴ち上がっていた。
まるで何事もなかったかのように、スカートの皺を軽く直して、
笑って⾔う。
「よ〜し、⾏こっか!」
その笑顔が、なによりも痛かった。
伊織はただ、⼩さく頷いて、隣を歩き出す凪沙のあとを静かに追った。
どれだけ笑っていても。
どれだけ明るく振る舞っていても。
この現実だけは、絶対に⽬をそらしちゃいけない。
そう思った。
駅の構内に⼊ると、ホームへの案内板が⼆⼿に分かれていた。
凪沙と伊織の最寄り駅は、それぞれ別の路線だった。
改札の前で、ふたりは⽴ち⽌まる。
「……じゃあ、僕こっちだから。」
伊織が⾔うと、凪沙は「そっか」と⼩さくうなずいて、
⼀歩、半歩、名残惜しそうに距離をとった。
けれど、すぐにぱっと明るい笑顔を浮かべて、
⼿を⼤きくひらひらと振る。
「んじゃ、ばいばーい!」
⾵にそよぐような軽やかさで、凪沙は⼿を振った。
伊織も、ほんの少し笑って、⼿を軽くあげる。
「うん。また、明⽇」
その⾔葉に、凪沙はにっこりと微笑み返した。
「また明⽇!」
彼⼥の背中が⼈混みに紛れていくまで、伊織はその場を離れなかった。
⼣⽅の構内アナウンスが、無機質に響いていた。
当たり前に過ぎていく⽇常の中に、
ほんの少しだけ、胸が締めつけられるような⾳がした。 
『また明⽇』
その⾔葉が、あんなにも切ないものだなんて、
この頃の僕は、まだ知らなかった。
* * *
電⾞が来るまで、あと三分。
駅のホームに⽴ち、伊織はスマホの画⾯をぼんやりと眺めていた。
SNSのタイムラインには、誰かの昼⾷の写真や、クラスメイトの
他愛のない投稿が流れていく。
スクロールしても、何も頭に⼊ってこなかった。
ふと、スマホを下ろして顔をあげる。
⾵が吹き抜け、誰かの制服のすそが揺れた。
視界の端に浮かぶのは、さっきまで隣にいた凪沙の笑顔。 ――「んじゃ!ばいばーい!」
明るく⼿を振る姿が、脳裏に焼き付いている。
胸を押さえて、震える声で「薬……」とつぶやいた姿と、頭の奥で
重なった。
「病気」だとか、「死」だとか。
どこか他⼈事だった⾔葉たちが、急に近く感じられる。
テレビの中でしか聞いたことのない現実が、
今、⾃分の⽬の前にいる“彼⼥”に確かに存在している。
なのに、凪沙は笑っている。
あんなふうに、まぶしいくらいの笑顔で。 
どうしてだろう。
――もし、⾃分だったら。
もし⾃分が、あと三ヶ⽉しか⽣きられないなんて⾔われたら、
果たして⾃分はあんなふうに笑えるだろうか。
あんな⾵に駅のホームで、「また明⽇」なんて⾔えるんだろうか。
……きっと、無理だ。
怖くて、悔しくて、泣いて、喚いて、全部投げ出して、

誰かにぶつけてしまうと思う。

それでも、彼⼥は笑っていた。

それがどれだけ強いことか、

それがどれだけ――切ないことか。

伊織は、初めて知った。 

ホームに滑り込んできた電⾞の⾳が、その思考を静かに途切れさせた。

伊織はスマホをポケットにしまい、開いたドアに⼀歩⾜を踏み⼊れる。

窓の外、⼣焼けの空。

沈んでいく太陽の⾊が、どこか、凪沙の髪⾊に似ていた。

第三章 ふたつめ

翌朝。

まだ登校には少し早い時間。