旬は助手席のドアを開ける。
何も聞かない。
まだ、聞かない。
エンジン音だけが、静かに流れている。
夜へ向かう街。
窓の外を、表参道の灯りがゆっくりと後ろへ流れていく。
希は助手席。
シートベルトを締めたまま、
背もたれに浅く預けた体。
泣いてはいない。
でも、目の奥がやわらかい。
何かを通ってきた顔。
旬は前を向いたまま、ハンドルを握る。
横を見ない。
見たら、何かがこぼれそうで。
本当は——
全部、聞きたい。
歩は何を言った?
まだ好きだ、と言った?
希は揺れた?
触れられた?
笑った?
泣いた?
どんな顔で?
どんな声で?
喉まで言葉が上がる。
「……どうだった?」
たったそれだけ。
なのに。
聞いたら負けな気がする。
聞いたら、
「不安です」
って言うみたいで。
それだけは、言いたくない。
信じるって決めたのは、自分だ。
希は戻ってきた。
自分の隣に、ちゃんと座っている。
それが答えじゃないのか。
信号で止まる。
赤い光が、車内を淡く染める。
そのとき、希が小さく息を吐いた。
「……静かだね」
いつもなら、旬が何か冗談を言う。
でも今日は、少し遅れる。
「うるさかった方がよかった?」
かすれないように、平静な声で。
希は首を横に振る。
「ううん。ちょうどいい」
ちょうどいい。
その言葉が、胸に落ちる。
希は窓の外を見ながら言う。
「ちゃんと、話してきたよ」
ハンドルを持つ指先が、わずかに強くなる。
ちゃんと。
何を?
どこまで?
でも、旬は聞かない。
「そっか」
それだけ。
希が、ゆっくりこちらを見る気配がする。
「旬、迎えに来てくれてありがとう」
その声は、揺れていない。
静かで、あたたかい。
旬は小さく笑う。
「約束だから」
青信号。
車がまた動き出す。
数秒の沈黙。
希が、ぽつりと続ける。
「過去はね、ちゃんと過去だった」
その一言で、胸の奥のざわめきが、少しだけほどける。
聞かなかったのに、欲しかった答えがそこにある。
旬は横目で、ほんの一瞬だけ希を見る。
希は前を向いている。
強がりじゃない顔。
選んだ人の顔。
旬は深く息を吸う。
「……腹減ってない?」
精一杯の、いつもの調子。
希が笑う。
さっきより、自然に。
「うん。お腹すいた」
その笑顔を見て、やっと実感する。
勝ち負けじゃない。
比べるものでもない。
過去がどれだけ特別でも、
今、隣にいるのは自分だ。
旬はアクセルを少しだけ強く踏む。
守るのは、問い詰めることじゃない。
信じ続けることだ。
エンジン音が、静かに夜へ溶けていく。
旬の部屋。
ダイニングの灯りはいつもより少しだけ落としてある。
テーブルの上には、希が作った料理。
ワインに合う前菜。
ハーブの香りが立つパスタ。
湯気の立つスープ。
その隣に、旬が選んだワイン。
ラベルを剥がすとき、
ほんの少しだけ手が滑った。
いつも通りの光景。
なのに今日は、空気がわずかに張っている。
フォークが皿に触れる小さな音さえ、
やけに鮮明に響く。
希が先に口を開く。
「今日ね」
自然な声。
作り物じゃない。
でも、覚悟を含んだ響き。
「歩、ちゃんと話してくれたよ」
旬はワインを口に含む。
味が、いつもより少し重い。
顔は上げない。
視線を皿に落としたまま、言う。
「……いいよ、全部話さなくても」
声は静か。
感情を削ぎ落としたみたいに。
希の手が止まる。
「聞きたくない?」
小さな確認。
旬は一瞬だけ息を止める。
聞きたくないわけじゃない。
むしろ、知りたい。
全部。
でも。
聞いた瞬間、
自分の中の何かが揺れるのが怖い。
「……聞いたらさ」
ゆっくり顔を上げる。
視線が、ようやく希を捉える。
「余計なこと考えそうだから」
正直だった。
強がりじゃない。
希は少し驚いた顔をして、
それから柔らかく笑う。
「旬って、変なところで正直だよね」
「悪いかよ」
少しだけ拗ねた声。
希は首を振る。
「ううん。嬉しい」
そして、まっすぐに言う。
「歩、まだ好きかもしれないって言った」
空気が、止まる。
ワインの香りが急に遠くなる。
旬の指先が、わずかに強くグラスを握る。
でも視線は逸らさない。
逃げない。
希も逃げない。
「でね、」
希の声は落ち着いている。
「それ聞いたとき、胸がざわついたのは事実」
正直。
刃物みたいにまっすぐ。
旬の胸が、きゅっと締まる。
「……そっか」
それしか出ない。
希は続ける。
「一瞬ね」
沈黙。
逃げ場はない。
でも次の言葉が、静かに落ちる。
「でも、それは“もしも”に揺れただけ」
「今じゃない」
「今は、旬の隣にいる自分が、一番自然だった」
その言葉が、部屋の空気を変える。
重さが、ゆっくりほどけていく。
旬は深く息を吐く。
「……迎えに来てって言ったの、後悔してない?」
希は即座に首を振る。
「むしろ、あれが答えだった」
少し照れたように笑う。
「終わったあと、旬の顔見たかったのは本当だから」
旬はしばらく黙る。
「……俺さ」
言葉を探す。
「怖かった」
希の目がやわらかくなる。
「聞いたら、不安だってバレそうで」
「バレてるよ、とっくに」
小さく笑う。
旬も、ようやく笑う。
完全に余裕なわけじゃない。
嫉妬も、怖さも、消えたわけじゃない。
でも。
それを隠さなくてもいい相手が、目の前にいる。
テーブルの料理は少し冷めている。
ワインも半分残っている。
それでも、部屋の空気はもう違う。
張りつめていたものがほどけ、
静かな温度が戻ってくる。
希が小さく呟く。
「ちゃんと終わったよ」
旬は頷く。
「じゃあ、これからは俺の番だな」
「何が?」
「ずっと好きでいる番」
希が吹き出す。
その笑い声が、やっといつもの音に戻る。
夜は、静かに深まっていく。
過去は置いてきた。
今、同じ部屋で、
同じワインを飲んでいる。
それが、選んだ未来だった。
まずは隣に座らせる。
守るのは、今からだ。
何も聞かない。
まだ、聞かない。
エンジン音だけが、静かに流れている。
夜へ向かう街。
窓の外を、表参道の灯りがゆっくりと後ろへ流れていく。
希は助手席。
シートベルトを締めたまま、
背もたれに浅く預けた体。
泣いてはいない。
でも、目の奥がやわらかい。
何かを通ってきた顔。
旬は前を向いたまま、ハンドルを握る。
横を見ない。
見たら、何かがこぼれそうで。
本当は——
全部、聞きたい。
歩は何を言った?
まだ好きだ、と言った?
希は揺れた?
触れられた?
笑った?
泣いた?
どんな顔で?
どんな声で?
喉まで言葉が上がる。
「……どうだった?」
たったそれだけ。
なのに。
聞いたら負けな気がする。
聞いたら、
「不安です」
って言うみたいで。
それだけは、言いたくない。
信じるって決めたのは、自分だ。
希は戻ってきた。
自分の隣に、ちゃんと座っている。
それが答えじゃないのか。
信号で止まる。
赤い光が、車内を淡く染める。
そのとき、希が小さく息を吐いた。
「……静かだね」
いつもなら、旬が何か冗談を言う。
でも今日は、少し遅れる。
「うるさかった方がよかった?」
かすれないように、平静な声で。
希は首を横に振る。
「ううん。ちょうどいい」
ちょうどいい。
その言葉が、胸に落ちる。
希は窓の外を見ながら言う。
「ちゃんと、話してきたよ」
ハンドルを持つ指先が、わずかに強くなる。
ちゃんと。
何を?
どこまで?
でも、旬は聞かない。
「そっか」
それだけ。
希が、ゆっくりこちらを見る気配がする。
「旬、迎えに来てくれてありがとう」
その声は、揺れていない。
静かで、あたたかい。
旬は小さく笑う。
「約束だから」
青信号。
車がまた動き出す。
数秒の沈黙。
希が、ぽつりと続ける。
「過去はね、ちゃんと過去だった」
その一言で、胸の奥のざわめきが、少しだけほどける。
聞かなかったのに、欲しかった答えがそこにある。
旬は横目で、ほんの一瞬だけ希を見る。
希は前を向いている。
強がりじゃない顔。
選んだ人の顔。
旬は深く息を吸う。
「……腹減ってない?」
精一杯の、いつもの調子。
希が笑う。
さっきより、自然に。
「うん。お腹すいた」
その笑顔を見て、やっと実感する。
勝ち負けじゃない。
比べるものでもない。
過去がどれだけ特別でも、
今、隣にいるのは自分だ。
旬はアクセルを少しだけ強く踏む。
守るのは、問い詰めることじゃない。
信じ続けることだ。
エンジン音が、静かに夜へ溶けていく。
旬の部屋。
ダイニングの灯りはいつもより少しだけ落としてある。
テーブルの上には、希が作った料理。
ワインに合う前菜。
ハーブの香りが立つパスタ。
湯気の立つスープ。
その隣に、旬が選んだワイン。
ラベルを剥がすとき、
ほんの少しだけ手が滑った。
いつも通りの光景。
なのに今日は、空気がわずかに張っている。
フォークが皿に触れる小さな音さえ、
やけに鮮明に響く。
希が先に口を開く。
「今日ね」
自然な声。
作り物じゃない。
でも、覚悟を含んだ響き。
「歩、ちゃんと話してくれたよ」
旬はワインを口に含む。
味が、いつもより少し重い。
顔は上げない。
視線を皿に落としたまま、言う。
「……いいよ、全部話さなくても」
声は静か。
感情を削ぎ落としたみたいに。
希の手が止まる。
「聞きたくない?」
小さな確認。
旬は一瞬だけ息を止める。
聞きたくないわけじゃない。
むしろ、知りたい。
全部。
でも。
聞いた瞬間、
自分の中の何かが揺れるのが怖い。
「……聞いたらさ」
ゆっくり顔を上げる。
視線が、ようやく希を捉える。
「余計なこと考えそうだから」
正直だった。
強がりじゃない。
希は少し驚いた顔をして、
それから柔らかく笑う。
「旬って、変なところで正直だよね」
「悪いかよ」
少しだけ拗ねた声。
希は首を振る。
「ううん。嬉しい」
そして、まっすぐに言う。
「歩、まだ好きかもしれないって言った」
空気が、止まる。
ワインの香りが急に遠くなる。
旬の指先が、わずかに強くグラスを握る。
でも視線は逸らさない。
逃げない。
希も逃げない。
「でね、」
希の声は落ち着いている。
「それ聞いたとき、胸がざわついたのは事実」
正直。
刃物みたいにまっすぐ。
旬の胸が、きゅっと締まる。
「……そっか」
それしか出ない。
希は続ける。
「一瞬ね」
沈黙。
逃げ場はない。
でも次の言葉が、静かに落ちる。
「でも、それは“もしも”に揺れただけ」
「今じゃない」
「今は、旬の隣にいる自分が、一番自然だった」
その言葉が、部屋の空気を変える。
重さが、ゆっくりほどけていく。
旬は深く息を吐く。
「……迎えに来てって言ったの、後悔してない?」
希は即座に首を振る。
「むしろ、あれが答えだった」
少し照れたように笑う。
「終わったあと、旬の顔見たかったのは本当だから」
旬はしばらく黙る。
「……俺さ」
言葉を探す。
「怖かった」
希の目がやわらかくなる。
「聞いたら、不安だってバレそうで」
「バレてるよ、とっくに」
小さく笑う。
旬も、ようやく笑う。
完全に余裕なわけじゃない。
嫉妬も、怖さも、消えたわけじゃない。
でも。
それを隠さなくてもいい相手が、目の前にいる。
テーブルの料理は少し冷めている。
ワインも半分残っている。
それでも、部屋の空気はもう違う。
張りつめていたものがほどけ、
静かな温度が戻ってくる。
希が小さく呟く。
「ちゃんと終わったよ」
旬は頷く。
「じゃあ、これからは俺の番だな」
「何が?」
「ずっと好きでいる番」
希が吹き出す。
その笑い声が、やっといつもの音に戻る。
夜は、静かに深まっていく。
過去は置いてきた。
今、同じ部屋で、
同じワインを飲んでいる。
それが、選んだ未来だった。
まずは隣に座らせる。
守るのは、今からだ。
