清く正しく美しく



「琴葉」

 彼が、耳元で低く、甘く囁く。名前を呼ばれるたびに、胸の奥が締めつけられて、たまらなくなる。

 呼び捨てにされるのは、こうして触れ合っている時だけ。息継ぎをする暇もないほど激しいキスを交わしても、肌に赤い印を残されても、何も身に纏わず抱き合っていても――それでも、私たちは一線を越えない。

 もっと欲しい、と思う。もっと触れてほしいし、彼に触れたい。

「・・・・・・理玖くん」

 もどかしく思って彼の名前を呼ぶと、嬉しそうに笑う。それから、口を塞がれる。激しく絡みながら、愛おしそうに肌に触れられるのに、決して一線を越えることはできない。

 焦らされて、ゆっくりと昂っていく。でも、この昂りが解消されることはないのだ。彼から与えられる熱に翻弄されて、どうにかなってしまいそうになりながら、今日も夜が更けていく。

「琴葉さん、朝だよ」

 理玖が、琴葉の身体を優しく揺らす。ゆっくり目を開けると、だんだん目が覚めてきた。

 目を細めてこちらを見る理玖と目が合う。ドキン、と心臓が跳ねて――昨夜の濃密な時間が頭を過り、顔がどんどん熱くなってきた。

 少し理玖から目を逸らしながら、布団を顔まで上げる。

「・・・・・・おはようございます」

「おはよう。朝ご飯できてるから、着替えたらおいで」

「えっ、すみません。何もできませんでした」

 慌てて起きあがろうとして、冷たい風が肌に当たった。上半身は何も身に纏っていないことを思い出して、布団の中に戻る。

 そんな琴葉を見て、理玖はクスッと笑った。

「いいよ。パン焼いただけだから。それに――」

 理玖が少しだけ意地悪そうな顔をして、琴葉の耳に顔を寄せた。

「昨日、結構、意地悪しちゃったからね」

 吐息交じりに低く囁かれて、琴葉は思わず目を瞑って片手で耳を塞いだ。顔がとても熱い。理玖は満足そうに笑って、琴葉の額に唇を落としてから部屋を出て行った。

サイドテーブルに畳まれた状態で置かれた洋服を、順番に身につけていく。琴葉が寝ている間に、理玖が洋服を拾って畳んでくれていたのだろう。

そういう所は相変わらずきめ細やかで、凄いなあ、と思う。琴葉も見習わなければ。

自分の身体に目を落とすと、薄くなった印と、バラのように真っ赤な印が入り混っていた。刻まれるようになってからどんなに時間が流れても、こうして見ると、心がくすぐったくなる。

「着替えました。理玖くん、何かできることありますか?」

 リビングに顔を出すと、理玖がキッチンで何かをしていた。

「んー?座ってていいよ」

「・・・・・・私も何かしたいです」

 そうじゃないと至れり尽せりで申し訳ない。そう思っていると、理玖が柔らかく笑った。

「そう?じゃあ、サラダとコーヒー運んでくれる?」

「はい」

 理玖からサラダとコーヒーをのせたお盆を受け取り、ダイニングテーブルに運んで並べる。

 すると、理玖が焼いたパンを持ってきて、琴葉と自分の前に置いてくれた。

「ありがとうございます」

「うん。食べようか」

いただきます、と手を合わせて食べはじめた。

 理玖が淹れたコーヒーから、柔らかな湯気が立っている。

 向かい側に座る理玖を見ながら、メガネをかけてラフな格好をしている姿がまだまだ見慣れないな、と思う。

 大学を卒業してから、週末はこうして理玖のマンションで過ごすようになった。

 まだ入社してからひと月も経っていないので、こうして一緒に朝食を食べて出勤するのは新鮮で、いつもドキドキする。

「今日も研修か~」

「覚えること、たくさんですよね」

 琴葉と理玖は同じ食品メーカーに就職した。今は新入社員として、一緒に研修を受けている。

 同じ会社に就職したのは偶然で、理玖はてっきり、お父さんのリゾート会社に入るものだと思っていた。でも、就活が本格的に始まる時期になって「就活して仕事に就けってさ。今のお前には会社を渡さないって言われた」と笑っていた。

 まだ慣れないスーツも、毎朝の満員電車も、毎日クタクタになってしまうけれど、こうして理玖と時間を過ごせているから頑張れる。

「まあ、でも、今週頑張れば連休だから。楽しみだね、旅行」

「・・・・・・はい!」

 理玖に微笑みかけられて、心臓がドキン、と跳ねた。

 学生の時は自由になる時間が多かったけれど、就職してからは一緒に過ごせる時間がかなり減ってしまった。まとまった休みを取れるのも限られているので、卒業前に連休は温泉地に旅行に行こうと決めていた。

 涼しい顔でコーヒーを味わって飲んでいる理玖を、ちらっと窺う。

 理玖は、きちんとした意味で責任を取れるようになるまでは最後までしないと言っていた。

 お互い仕事に就いた。今が、その「責任を取れるようになった」状態なのではないか。

 そう考えると、温泉旅行が――ついに、深く触れ合えるのではないかと、期待してしまう。

 でも、もしそうなったとしたら、きちんと受け止められるだろうか。そんな不安が、少しだけ過った。