清く正しく美しく


「・・・・・・今日はここまでにしようか」

「・・・・・・えっ?」

 琴葉は理玖の顔を見る。理玖の目を閉じていて、先程と変わらず穏やかに笑顔を浮かべている。

「付き合い始めた時から、決めてたんだ。こういうことは、きちんと俺自身の力で責任を取れるようになるまでしないって」

 理玖が、ゆっくり目を開く。瞳は真剣そのもので、真っ直ぐに琴葉を射抜いている。

「いろいろ調べたんだけど・・・・・・やっぱり、もしものことがあった時、一番負担が大きいのは琴葉さんなんだよ」

 琴葉も佇まいを正して、理玖を見つめた。

「もし、俺と琴葉さんが愛し合った末に新しい命が芽生えたとしたら、もちろん責任は喜んで取るよ。でも、妊娠によって心身共に負担があるのは琴葉さんの方だから・・・・・・」

 理玖が、少しだけ困ったように笑って続ける。

「――だから、たとえ琴葉さんにお願いされても、最後までは絶対にしない」

 きちんとした意味で責任が取れるようになるまでは。彼はそう言った。

 きっと、琴葉の身体の負担だけではなく、将来のことも考えてくれている。琴葉の未来の選択肢が、狭まらないように。

 そこまで考えて、いつもギリギリの所で踏みとどまってくれていたのだ。琴葉の理玖に触れたいという思いを受け止めたうえで。

 そう思ったら、胸の奥が締めつけられた。でも、とても温かい。こんなに優しくて、大切にしてくれる人なんて、他にいない。

 琴葉は理玖に手を伸ばして、頬に触れた。

「――理玖くん、大好き」

 琴葉は理玖に近づいて、自分の唇を理玖のものへくっつけた。すぐに離して顔を見ると、目を丸くしていた。そんな理玖が、とても愛おしいと思う。

「俺も、大好きだよ」

 理玖が、ふんわりと笑う。お互い見つめ合って、どちらかともなく唇を重ねた。

「・・・・・・琴葉さん。提案があるんだけど」

「何ですか?」

「琴葉さん、谷崎潤一郎、好きでしょ?」

「はい」

「俺も読んだんだ。それで・・・・・・最後までは絶対に触れない、だけど、触れそうで触れられないっていうイチャイチャをやってみたい」

 理玖が、少し照れたように視線を外した。琴葉はそんな理玖を見て、頬が緩んだ。

「痴人の愛の、河合とナオミのような関係っていうことですか?」

「うん」

 谷崎潤一郎の描く『痴人の愛』では、主人公の河合は妻のナオミに触れたいのに触れられない。誘われているようなのに、触れることは決して許されない。あの焦燥感が、とても魅力的で官能的で――虜になった。

 直接的描写はないのに、耽美的で、何度読んでもドキドキする。

「そういう風に触れ合えたら・・・・・・きちんと愛し合えるようになった時に、きっと、すごいことになるんじゃないかなって」

 そう言われて、思わず想像をしてしまった。落ち着いていた身体に、再び熱が帯びてくる。

 理玖に、触れてほしいのに触れてもらえず、焦らされたとしたら――

「・・・・・・それは、すごく、ドキドキしますね」

 理玖は「でしょ?」と言って柔らかく笑った。とても魅惑的で、つい目を引き寄せられる。

「じゃあ、今日から、ね」

「・・・・・・はい」

 理玖が、琴葉の唇に軽く触れて――、一分の隙間もないくらい、抱き寄せられる。

 密着した肌が心地よくて、温かい。でも、理玖はそれ以上は動かなかった。

 触れたいけれど、触れられない。そのもどかしさのせいか、理玖の体温も息遣いも、いつもよりずっと近く感じた。

 もどかしさと、お互いを焦らすような視線の交わし合いが、部屋の明かりを消した暗闇の中で、かえって鮮烈な熱となって肌にまとわりつく。

「おやすみ、琴葉さん」

「・・・・・・はい、おやすみなさい」

 窓の外の雨は、いつの間にか止んでいた。

 絡めた指先から、確かな温もりと愛おしさを感じる。一番甘くて、少しだけ不自由な愛が、ゆっくりと闇に沈んでいった。