洛陽夜曲

「組の将来を案じるのであればなおのこと、私との結婚を絶てないこと、
本当はご理解なさっているのでしょう?」

京司を見据える梨花の瞳は、闇を裂く鷹のそれであった。
一切の逃走を許さぬその冷徹な光の奥底で、
けれど場違いなほどの哀れみが、澱のように沈殿している。


「……何が言いたいんや?」


京司の声が震えた。彼女の視線に射すくめられた瞬間、彼は自分がすでに、
逃げ場のない檻の中にいることを悟ったのだ。


「九条組のフロント企業のメインバンクは、そのほとんどが山城銀行……
頭取である父の掌の上ですよ」


残酷なまでの事実が、乾いた音を立てて並べられる。


「組長、貴方が私的に営まれる店も、近頃は火の車のご様子。
父の元には、恥を忍んだ融資の請願が届いておりますわ」


京司の喉の奥で、獣が唸り声を上げた。全身の筋肉が鋼のように強張り、
悲鳴を上げる。


「俺がこの話を蹴れば、銀行は九条組を切り捨てる……。
そういう脅しか、これは」


震える声には、沸点に達した怒りと、抗いようのない絶望が混濁していた。
梨花の唇に、氷の刃を彷彿とさせる凄惨な微笑が兆した。


「あら、嫌ですわ。そんな顔にならないで。わたくしが、
未来を共にする殿方を窮地に突き落とすはずがございませんもの」


射抜くような眼差しと、慇懃な言葉の裏に隠された鋭利な毒。
京司はただ、絞り出すような声にもならない沈黙に身を委ね、
握りしめた拳を小刻みに震わせることしかできなかった。
言葉は喉の奥で凍りつき、反論の術を奪われていた。


「わたくし、良き妻となりますわ。九条組の栄華のため、
この身を粉にして尽力させていただきます」


慈悲を装ったその声音は、目に見えぬ首枷となって京司の自由を奪っていく。
『九条組』。
その名を人質に取られた今、彼に許されたのは、
破滅への扉を自ら開くという残酷な降伏のみであった。
退路は断たれ、もはや婚姻という名の永劫の幽閉を拒む術は、どこにも残されていなかった。


 鴨川のせせらぎが夕陽の残照に溶け、古都が朱金に染まる頃、
は自室へと辿り着いた。自らの足で歩んだのか、
あるいは誰かの手によって運ばれたのか。
その記憶は、暮れゆく光のなかに朧げに霧散している。

ふと我に返れば、彼はただ一人、薄闇の降り積もるリビングのソファに、魂を抜き取られた抜け殻のごとく沈み込んでいた。
梨花との会話を終えたのち、京司の意識はどこか遠い場所を彷徨っていた。
連れ立って散歩を切り上げ、料亭の座敷へと戻り、
目の前には絢爛たる京懐石が運ばれてきた……はずであった。

しかし、舌の上に残る記憶は空虚そのものだ。
山海の珍味を口に運んだはずが、その彩りも、芳醇な出汁の香りも、
霧の向こう側へと消え去っている。
何を酌み、何を食したのか、その一切が実感を伴わぬまま滑り落ちていった。

ただ、自らの与り知らぬ場所で、忌々しくも饒舌な三人の声だけが、
祝言へ向けた筋書きを無機質に紡いでゆく。
京司という存在を置き去りにしたまま、その祝祭の足音だけが、
耳障りなほど鮮明に響いていた。