洛陽夜曲

六穣会がかりそめの平穏を享受していたその頃、
京都の街で京司を待ち受けていたのは、
見合いという名のひどく現実的で、それでいて厄介な火種だった。

九条組が差配するラウンジ。重厚な扉の向こう側、紫煙とアルコールの香りが混じり合う空間で、京司は淡々と接待をこなしていた。
しかし、彼がそこに座っているというだけで、
空間の温度は確実に数度跳ね上がる。
フロアを舞う夜の蝶たちは、彼の冷徹なまでの美貌に、
隠しきれない熱情を煽られていた。
ただグラスを傾け、時折薄い唇を動かす。
その仕草ひとつに彼女たちは色めき立ち、
誰にともなく向けられる眼差しを奪い合おうと、
競うように艶やかな笑みを振りまくのだった。

「若頭はん、悔しいわ……」

吐息が触れるほどの距離で、艶やかな声が京司の鼓膜を震わせた。
この店の頂点に君臨する美紀が、吸い付くような仕草で彼の隣に滑り込む。
手慣れた、それでいて指先の震えすら計算されたような手つきで、
彼女は京司の唇に咥えられた煙草に火を灯した。

「何の話や?」

京司は視線だけを動かし、不可解そうに美紀の横顔を捉える。
その冷徹な眼差しさえ、彼女には甘美な毒に思えた。


「いややわ。今や祇園中が、九条の若頭に降って湧いた結婚話で、
もちきりになっとるのをご存じないの?」

彼女の瞳に宿る情熱の火は、ライターの炎よりも熱く、
そしてどこか哀しげに揺れていた。


「……は?」


虚を突かれた京司の唇から、危うく煙草が零れ落ちそうになる。
静謐を保っていた彼の表情に、初めて明確な動揺の影が落ちた。


「何やその噂は。一体、どこから……」


当惑を隠せぬ京司の問いに、美紀は意外そうに、
どこか同情を含んだ眼差しを向けた。


「いややわ、ご存じなかったんですか? この前、
組長さんがお見えになった折、若頭の嫁取りの話やと言うて、
それはもう上機嫌に吹聴して回ってはりましたよ」

(あのジジイ……)

内側に湧き立つのは、どす黒い怒りの奔流だった。京司の指先が、
微かな、しかし確かな憤怒に震える。
彼は手にしていた煙草を、まるで憎き仇でも屠るかのように、
灰皿の底へ忌々しげに押し潰した。

(外堀から埋めていくつもりなんやろうか…)

――そんな疑念が、
音もなく忍び寄る湿った霧のように彼の逃げ道を奪っていく。
目に見えぬ重圧が、じわじわと、しかし確実に自らの喉元へ指をかけ、
自由という名の呼吸を許さない。
古くから絡み合う“極道としての義理”という名の蜘蛛の糸。
それを断ち切る鋭利な意志を持てぬまま、
流されるがままに見合いの席へと追い詰められていく。

そんな己の不甲斐なさが、京司の胸の内でどす黒い火種となり、
ふつふつと、それでいて烈しく、静かなる憤怒を燃え上がらせていた。

喧騒のなか、美紀がそっと自分の指を京司のそれに重ねた。
絡めるのではなく、ただ重みを預けるような、拒絶を許さない一方的な接触。
彼女は椅子の距離を詰め、京司の耳元へ唇を寄せる。
周囲の客の笑い声に溶けて消えてしまいそうな、
それでいて確かな熱を持った声が響いた。

「独身最後の思い出づくり。……今晩、どう?」

鼓膜をなぞる甘ったるい声。それ以上に、彼女が纏う濃厚な香水の匂いが、
ひどく鼻についた。高級な、けれど自己主張の激しいその香りは、
今の京司にとって不快な異物でしかない。


「結婚の話がなかろうが、お前のとこに行く選択肢は、はなからあらへん」


京司の声は、驚くほど平坦だった。怒りさえ介在しない、ただの事実の通告。
彼は美紀の顔を視界に入れることさえせず、無機質な動作で立ち上がった。
一度も振り返ることなく、澱んだ空気の充満する店を後にする。
背後で、彼女の香水の残り香だけが虚しく霧散していった。