大阪への道すがら、鈴華は神野屋敷の追憶に浸っていた。
奈良を発つ朝の、あの重苦しくも温かい静寂。
門前に居並ぶ面々の、言葉にならない溜息。
鈴華は深々と頭を垂れ、
「神野の皆さん…短い間でしたが、本当にお世話になりました」
そう万感の思いを込めて告げた。
旅立ちを翌朝に控えた、ひどく静かな夜だった。
鈴華は、神野と並んで月を仰いでいた。
冴えわたる月光が、里を縁取る山々の稜線を鋭く切り出している。
「鈴華さんがいなくなったら、この里もいよいよ静まり返ってしまうなぁ」
隣で神野が煙草を燻らす。吐き出された紫煙が、
湿った夜気に溶けては消えた。
その独白に近い寂寥感に、鈴華は視線を落とさず、
ただまっすぐな声を返した。
「神野さんのもとで過ごした時間は、
私にとって……学びの多い貴重な時間でした」
言葉を選ぶたび、この土地の土の匂いや、
ここで交わした血の通った約束が胸に去来する。
「その土地に生き、泥を啜ってでも守り抜く。——裏の世界に身を置く者に、これほど純粋で、峻厳な生き方があるのだと知りました。
あなたが教えてくれたのは、単なる作法ではなく、
“極道”という名の矜持でした」
神野は指先の煙草を深く吸い込み、肺の奥で時間を止めるようにしてから、
白紫の煙を吐き出した。
その煙は、湿り気を帯びた夜の空気に溶けることなく、
二人の間に漂っている。
「……鈴華さんは、一生その、〝極道の世界”で生きていく気なんか?」
問いかけは静かだったが、
そこには踏み込んではならない領域に爪先をかけるような危うさがあった。
「……私は、裏側の景色しか知らないんです」
鈴華の声には、感傷も、あるいは悲劇を気取るような響きもなかった。
ただ、それ以外に選択肢など存在しないのだという、
乾いた事実だけがそこにあった。
神野はそれ以上、言葉を継ごうとはしなかった。
ただひたすらに、手元の煙草を燻らせる。
赤い火種がじりじりと短くなっていく。
その沈黙は、彼女の背負う闇の深さを無言で肯定しているかのようだった。
「極道を極めるのも、一つの生き方や。
せやけどな、その外側に広がる名もなき景色を、あんたには見てほしいんや」
神野の瞳には、峻険な嶺を歩む者の諦念と、深い慈しみが同居していた。
その眼差しは、鈴華の足元に広がる血の轍ではなく、もっと遠く、
境界線の向こう側を捉えているようだった。
「極道以外の、世界……」
鈴華は彼の言葉を喉の奥でなぞってみたが、
それは実体のない霧を掴むような、心許ない手触りしか残さなかった。
彼女の視界を占めるのは、どす黒い血糊と鉄火の匂いに塗り潰された、
狭隘な路地裏だけだ。神野が説く「世界」は、あまりにも眩く、
そしてあまりに遠い銀河の出来事のように、
彼女の意識から零れ落ちていった。
奈良を発つ朝の、あの重苦しくも温かい静寂。
門前に居並ぶ面々の、言葉にならない溜息。
鈴華は深々と頭を垂れ、
「神野の皆さん…短い間でしたが、本当にお世話になりました」
そう万感の思いを込めて告げた。
旅立ちを翌朝に控えた、ひどく静かな夜だった。
鈴華は、神野と並んで月を仰いでいた。
冴えわたる月光が、里を縁取る山々の稜線を鋭く切り出している。
「鈴華さんがいなくなったら、この里もいよいよ静まり返ってしまうなぁ」
隣で神野が煙草を燻らす。吐き出された紫煙が、
湿った夜気に溶けては消えた。
その独白に近い寂寥感に、鈴華は視線を落とさず、
ただまっすぐな声を返した。
「神野さんのもとで過ごした時間は、
私にとって……学びの多い貴重な時間でした」
言葉を選ぶたび、この土地の土の匂いや、
ここで交わした血の通った約束が胸に去来する。
「その土地に生き、泥を啜ってでも守り抜く。——裏の世界に身を置く者に、これほど純粋で、峻厳な生き方があるのだと知りました。
あなたが教えてくれたのは、単なる作法ではなく、
“極道”という名の矜持でした」
神野は指先の煙草を深く吸い込み、肺の奥で時間を止めるようにしてから、
白紫の煙を吐き出した。
その煙は、湿り気を帯びた夜の空気に溶けることなく、
二人の間に漂っている。
「……鈴華さんは、一生その、〝極道の世界”で生きていく気なんか?」
問いかけは静かだったが、
そこには踏み込んではならない領域に爪先をかけるような危うさがあった。
「……私は、裏側の景色しか知らないんです」
鈴華の声には、感傷も、あるいは悲劇を気取るような響きもなかった。
ただ、それ以外に選択肢など存在しないのだという、
乾いた事実だけがそこにあった。
神野はそれ以上、言葉を継ごうとはしなかった。
ただひたすらに、手元の煙草を燻らせる。
赤い火種がじりじりと短くなっていく。
その沈黙は、彼女の背負う闇の深さを無言で肯定しているかのようだった。
「極道を極めるのも、一つの生き方や。
せやけどな、その外側に広がる名もなき景色を、あんたには見てほしいんや」
神野の瞳には、峻険な嶺を歩む者の諦念と、深い慈しみが同居していた。
その眼差しは、鈴華の足元に広がる血の轍ではなく、もっと遠く、
境界線の向こう側を捉えているようだった。
「極道以外の、世界……」
鈴華は彼の言葉を喉の奥でなぞってみたが、
それは実体のない霧を掴むような、心許ない手触りしか残さなかった。
彼女の視界を占めるのは、どす黒い血糊と鉄火の匂いに塗り潰された、
狭隘な路地裏だけだ。神野が説く「世界」は、あまりにも眩く、
そしてあまりに遠い銀河の出来事のように、
彼女の意識から零れ落ちていった。
