大阪の雑多な賑わいを見せる雑貨街。その一角に、下界を見下ろすように聳え立つオフィスビルがある。
広域暴力団・六穣会が所有する、冷徹なコンクリートの城郭。
その最上階に構えられた組事務所は、今や濃密な不穏に満たされていた。
鈴華が奈良の地へ向かった後、空間に立ち込めているのは、
湿り気を帯びた硝煙のような焦燥感だ。
「――っ、ふざけやがって!」
静寂を切り裂いたのは、宏一の怒号だった。
腹の底から絞り出されるその声は、
虚空を噛み砕くかのように荒々しく響き渡る。
行き場を失った怒りは、剥き出しの牙となって室内の空気を切り刻み、
窓の外に広がる大阪の街並みさえも震わせんばかりの熱量を帯びていた。
剥げ落ちた理性の隙間から溢れ出すのは、隠しようのない苛立ち。
それは、静まり返った事務所の壁にぶつかっては、
どす黒い残響となって宏一の足元に澱んでいった。
「カシラ…あんた、今日でそのセリフ何回目や思てるん?」
早緑の漏らしたため息には、隠しきれない倦怠感と、
底知れない呆れが混じっていた。
その冷ややかな視線はもはや諦めに近く、
投げかけられた言葉も空中の塵ほどにも響かない。
しかし、当の宏一に届いている様子は微塵もなかった。
彼は煮えたぎる苛立ちをそのまま言葉に変え、激しい剣幕で怒鳴り散らす。
「藤四郎! てめぇ、よくも鈴華を神野のところに……。あんな場所に安々と引き渡しやがって!」
標的にされた藤四郎にとっては、まさに寝耳に水の災難である。
論理もへったくれもない宏一の八つ当たりは、
理不尽な暴風となって、ただ一人の男の背中に重くのしかかっていた。
「お嬢を、たったお一人で奈良へ向かわせ言うんですか?」
早緑の鋭利な言葉が、宏一の口を封じた。
「……俺かて、あの方を置いてくるんなんて、
身が痛むような思いしてたんやで」
「くそっ!」
宏一は椅子に倒れ込んだ。顔に刻まれた深い皺は、逃れられぬ現実に対する嫌悪の象徴のようだ。デスクを叩く拳の痛みなど、
胸に巣食う焦燥に比べれば微々たるものに過ぎない。
繰り返される打撃の音は、
出口のない迷路を彷徨う彼の心臓の鼓動のようであった。
「…机壊したらIKEAまで買いに行ってもらいますからね」
「うるせぇっ!てめぇ鈴華より机が大事かよ!」
「お嬢と机を壊すんは関係あらへんで」
宏一と早緑、そして鈴華。
三人の間には、盃を交わしたという形ばかりの盟約など存在しない。
それでも彼らを繋いでいるのは、
血よりも濃い情愛が編み上げた“兄弟”という名の確かな絆だった。
まだ、鈴華が香港からやってきたばかりの頃のことだ。
当時の槇村は、仕事の荒波に揉まれるようにして全国を飛び回り、
一箇所に留まることさえままならなかった。
親代わりの不在を埋めるようにして、
日本語もままならない彼女の面倒を引き受けたのが宏一と早緑だったのだ。
二人が注いだ慈しみは、異郷の地で戸惑う鈴華の心を静かに溶かしていった。
親愛の情は、あの目まぐるしい日々のなかで、誰に教わるともなく、
ごく自然に芽生えていったのである。
「…シスコン」
ボソッと小声で早緑が囁いた。
「あぁ⁉誰がシスコンだ!聞こえてるぞ藤四郎!」
鈴華の帰還を希求する切実な沈黙が、壁一面に張り付いている。
それを剥ぎ取らんとするのは、いつもの宏一と早緑の喧噪だ。
二人の丁々発止のやり取りだけが、
鈴華を欠いたこの空間に確かな脈動を刻み続けていた。
広域暴力団・六穣会が所有する、冷徹なコンクリートの城郭。
その最上階に構えられた組事務所は、今や濃密な不穏に満たされていた。
鈴華が奈良の地へ向かった後、空間に立ち込めているのは、
湿り気を帯びた硝煙のような焦燥感だ。
「――っ、ふざけやがって!」
静寂を切り裂いたのは、宏一の怒号だった。
腹の底から絞り出されるその声は、
虚空を噛み砕くかのように荒々しく響き渡る。
行き場を失った怒りは、剥き出しの牙となって室内の空気を切り刻み、
窓の外に広がる大阪の街並みさえも震わせんばかりの熱量を帯びていた。
剥げ落ちた理性の隙間から溢れ出すのは、隠しようのない苛立ち。
それは、静まり返った事務所の壁にぶつかっては、
どす黒い残響となって宏一の足元に澱んでいった。
「カシラ…あんた、今日でそのセリフ何回目や思てるん?」
早緑の漏らしたため息には、隠しきれない倦怠感と、
底知れない呆れが混じっていた。
その冷ややかな視線はもはや諦めに近く、
投げかけられた言葉も空中の塵ほどにも響かない。
しかし、当の宏一に届いている様子は微塵もなかった。
彼は煮えたぎる苛立ちをそのまま言葉に変え、激しい剣幕で怒鳴り散らす。
「藤四郎! てめぇ、よくも鈴華を神野のところに……。あんな場所に安々と引き渡しやがって!」
標的にされた藤四郎にとっては、まさに寝耳に水の災難である。
論理もへったくれもない宏一の八つ当たりは、
理不尽な暴風となって、ただ一人の男の背中に重くのしかかっていた。
「お嬢を、たったお一人で奈良へ向かわせ言うんですか?」
早緑の鋭利な言葉が、宏一の口を封じた。
「……俺かて、あの方を置いてくるんなんて、
身が痛むような思いしてたんやで」
「くそっ!」
宏一は椅子に倒れ込んだ。顔に刻まれた深い皺は、逃れられぬ現実に対する嫌悪の象徴のようだ。デスクを叩く拳の痛みなど、
胸に巣食う焦燥に比べれば微々たるものに過ぎない。
繰り返される打撃の音は、
出口のない迷路を彷徨う彼の心臓の鼓動のようであった。
「…机壊したらIKEAまで買いに行ってもらいますからね」
「うるせぇっ!てめぇ鈴華より机が大事かよ!」
「お嬢と机を壊すんは関係あらへんで」
宏一と早緑、そして鈴華。
三人の間には、盃を交わしたという形ばかりの盟約など存在しない。
それでも彼らを繋いでいるのは、
血よりも濃い情愛が編み上げた“兄弟”という名の確かな絆だった。
まだ、鈴華が香港からやってきたばかりの頃のことだ。
当時の槇村は、仕事の荒波に揉まれるようにして全国を飛び回り、
一箇所に留まることさえままならなかった。
親代わりの不在を埋めるようにして、
日本語もままならない彼女の面倒を引き受けたのが宏一と早緑だったのだ。
二人が注いだ慈しみは、異郷の地で戸惑う鈴華の心を静かに溶かしていった。
親愛の情は、あの目まぐるしい日々のなかで、誰に教わるともなく、
ごく自然に芽生えていったのである。
「…シスコン」
ボソッと小声で早緑が囁いた。
「あぁ⁉誰がシスコンだ!聞こえてるぞ藤四郎!」
鈴華の帰還を希求する切実な沈黙が、壁一面に張り付いている。
それを剥ぎ取らんとするのは、いつもの宏一と早緑の喧噪だ。
二人の丁々発止のやり取りだけが、
鈴華を欠いたこの空間に確かな脈動を刻み続けていた。
