洛陽夜曲

「……殺してやる」


低く震える声とともに、
宏一の指先がジャケットの内側に潜む冷徹な鋼——ドスの柄へと伸びた。

その刹那、鈴華が迷わず飛び込む。
折れてしまいそうなほど細い肢体で、狂気を孕んだ宏一の剛腕にしがみつき、
必死にその進撃を押しとどめる。


「駄目です、カシラ……!」


同時、背後では錨が動いていた。
京司の背を影のように捉え、その自由を無慈悲に奪い去る。


「カシラ! いけません! ここは義理事の場、メンツを潰す気ですか!」


静まり返っていた会場に、錨の怒号が重く響き渡る。
一線を越えようとする宏一の殺意と、それを引き戻そうとする者たちの叫び。
張り詰めた空気は、火花ひとつで爆発しかねない極限の緊張に包まれていた。
鈴華の悲鳴と錨の怒号が入り混じる混沌の中、それらすべてを嘲笑うような、
低く、湿り気を帯びた笑い声が遠くから響いた。


「ええなぁ。若いもんは元気よぉて…」


喧騒を切り裂いて現れたのは、紋付き袴を纏った一人の老人だった。
一歩、また一歩。杖が床を叩く乾いた音だけが、静寂を引き連れてくる。
その歩みを守護するように、
背後には鉄壁の肉壁——黒服の巨漢たちが影のように付き従う。
老人の双眸に宿る老獪な光が、
宏一たちの青臭い殺意を無慈悲に値踏みしていた。

老人の乾いた笑い声が耳に届いた瞬間、宏一と京司を突き動かしていた猛り狂う衝動が、まるで呪縛にかけられたかのように凍りついた。
老人は、死神が魂を数えるかのような緩慢な足取りで歩みを進め、
二人の鼻先でその足を止めた。


「しかしなぁ……場をわきまえへんのは、どないしたもんやろか」


穏やかさの裏に、底知れぬ深淵を覗かせる声だった。


「…箸尾のオジキ」


誰かがその名を、畏怖を込めて呟いた。
小柄な体躯に、朗らかな、慈愛すら感じさせる相好。
だが、その仏のような微笑の奥底には、
幾多の修羅場をくぐり抜けてきた老獪な冷徹さが、
鋭い毒針のように隠されていた。


「この場はワシが預からせてもらうで。ええな?」


差し出された言葉はどこまでも穏やかで、慈雨のように静かだった。
だが、その一言一言には、抗う術を許さない絶対的な質量が宿っている。
宏一も京司も、喉の奥まで出かかった反論を、
目に見えぬ巨大な掌で押し戻されたかのように沈黙した。


「東條の親分には、ワシから話を通しておくさかい。
この場は二人とも、引きなさいな」


慈悲深い響きの中に、絶対的な拒絶を孕んだ宣告。
箸尾と呼ばれた老人は、反論の隙さえ与えぬまま静かに背を向けた。
杖の突く音だけが規則正しく砂利を弾いて消えていく。
その痩せた小さな背中に、逆らうことの許されない
巨大な組織の重圧が影を落としていた。

「…ちっ!」


低く、鋭い舌打ちが静寂を切り裂いた。
宏一は苛立ちを隠そうともせず、乱暴にセダンのドアを引くと、
その重苦しい鉄の箱の中へと身を沈めた。

鈴華は、ただ立ち尽くす京司に一度だけ視線を走らせる。
その瞳には、言の葉にならない想いが幾層にも重なっているようだった。


「鈴華! 早くしろ、帰るぞ」


宏一の無機質な催促が響くと、彼女は堪えるように伏目にし、
未練を断ち切るように背を向けた。