賀茂川沿いに建つマンションのエントランスを出ると、
鋭い冷気が二人の頬を撫でた。
「 寒うないか?」
鈴華は首を横に振り、京司と並んで堤防へと続く緩やかな坂を歩く。
川面に目を向けると、そこには幻想的な光景が広がっていた。
水温と気温の差が生み出した川霧が、白いベールのように水面を這い、
対岸の景色を曖昧にぼかしている。
二人の足音だけが、小気味よく舗装路に響く。
いつもは観光客や学生で賑わうこの道も、今は散歩中の老犬と、
数人のランナーが通り過ぎるだけだ。
賀茂川と高野川が合流する地点“鴨川デルタ”は、深い霧の底に沈んでいた。
亀の形をした飛び石も、今朝ばかりは霧に濡れて黒々と光り、
どこか異世界の入り口のような佇まいを見せている。
デルタの先端へと足を進める二人。
川霧に包まれたデルタは、まるで世界に二人きりしかいないような、
静謐で贅沢な孤独を彼らに与えていた。
鈴華は幼子の無邪気さをその身に宿し、軽やかに飛び石を跳ねていく。
彼女の弾むような生気を守るようにして、彼は一歩ずつ、
静かに距離を詰めていった。
---飛び石の上で、鈴華の歩みが不意に途絶えた。
まるで時間が凍りついたかのように、
彼女の視線は対岸から近づく人影に縫い付けられている。
そのただならぬ気配に、京司も即座に眉をひそめた。
「なんや、どないした?」
低く問いかける声に、鈴華は震える唇をかすかに開いた。
「…お兄ぃ。どうして、ここに…」
“兄“と呼ばれた男は、淀みのない所作で石を渡ってくる。
その静かな歩みは、逃れられない宿命が近づく足音のようであった。
ゆっくりと、だが確実にこちらへと近づいてくる。
飛び石を打つ靴音が、二人の間に重く響いた。
兄と呼ばれた男が無表情に距離を詰めてくる。
その一歩ごとに、周囲の喧騒が遠のいていく錯覚に陥った。
一般人のそれとは明らかに一線を画す、硬質な佇まい。
京司と同じ世界の住人だ。隠しようもなく漂ってくる、
硝煙と深淵が入り混じる匂いと、鋭利な気配を彼は纏っていた。
「お兄ぃ…」
その呟きが宙に消えるよりも早く、
濁った殺意を孕んだ足裏が鈴華の脇腹を捉えた。
「――ッ!」
肺の空気を強引に絞り出されるような衝撃。
飛び石から弾き飛ばされた鈴華の身体は、
凍てつく鴨川へと無様に打ち据えた。
「――何しよるんやッ!」
京司の怒声が、まだ眠りの中にあった河川敷の空気を切り裂いた。
水面に激しい飛沫が上がり、直後、
刺すような川の冷たさが鈴華の全身を支配する。
静まり返った朝の景色の中で、京司の荒い呼吸と、川下へと流れていく水音だけが異常に大きく響いていた。
「おまえ、どういうつもりやねん!」
京司は躊躇うことなく川へ跳びこんだ。濁った水飛沫が上がり、
バランスを崩して倒れ伏す鈴華の体を抱き起こす。
彼女の髪はたっぷりと水を含んで重く、肌にどろりと張り付いていた。
「おい、どないなつもりやねん……答え言うてみぃ!」
京司の怒鳴り声が周囲の空気を震わせる。だが、飛び石の上に立つ男は、
彫刻のような無表情で眼下の光景を見下ろしているだけだった。
ただ無表情に、水底を這う鈴華の無残な姿を、
虚空を見つめるような瞳で見下ろしている。
その冷徹な眼差しの中に、
京司という存在は最初から刻まれてなどいないかのようだった。
鋭い冷気が二人の頬を撫でた。
「 寒うないか?」
鈴華は首を横に振り、京司と並んで堤防へと続く緩やかな坂を歩く。
川面に目を向けると、そこには幻想的な光景が広がっていた。
水温と気温の差が生み出した川霧が、白いベールのように水面を這い、
対岸の景色を曖昧にぼかしている。
二人の足音だけが、小気味よく舗装路に響く。
いつもは観光客や学生で賑わうこの道も、今は散歩中の老犬と、
数人のランナーが通り過ぎるだけだ。
賀茂川と高野川が合流する地点“鴨川デルタ”は、深い霧の底に沈んでいた。
亀の形をした飛び石も、今朝ばかりは霧に濡れて黒々と光り、
どこか異世界の入り口のような佇まいを見せている。
デルタの先端へと足を進める二人。
川霧に包まれたデルタは、まるで世界に二人きりしかいないような、
静謐で贅沢な孤独を彼らに与えていた。
鈴華は幼子の無邪気さをその身に宿し、軽やかに飛び石を跳ねていく。
彼女の弾むような生気を守るようにして、彼は一歩ずつ、
静かに距離を詰めていった。
---飛び石の上で、鈴華の歩みが不意に途絶えた。
まるで時間が凍りついたかのように、
彼女の視線は対岸から近づく人影に縫い付けられている。
そのただならぬ気配に、京司も即座に眉をひそめた。
「なんや、どないした?」
低く問いかける声に、鈴華は震える唇をかすかに開いた。
「…お兄ぃ。どうして、ここに…」
“兄“と呼ばれた男は、淀みのない所作で石を渡ってくる。
その静かな歩みは、逃れられない宿命が近づく足音のようであった。
ゆっくりと、だが確実にこちらへと近づいてくる。
飛び石を打つ靴音が、二人の間に重く響いた。
兄と呼ばれた男が無表情に距離を詰めてくる。
その一歩ごとに、周囲の喧騒が遠のいていく錯覚に陥った。
一般人のそれとは明らかに一線を画す、硬質な佇まい。
京司と同じ世界の住人だ。隠しようもなく漂ってくる、
硝煙と深淵が入り混じる匂いと、鋭利な気配を彼は纏っていた。
「お兄ぃ…」
その呟きが宙に消えるよりも早く、
濁った殺意を孕んだ足裏が鈴華の脇腹を捉えた。
「――ッ!」
肺の空気を強引に絞り出されるような衝撃。
飛び石から弾き飛ばされた鈴華の身体は、
凍てつく鴨川へと無様に打ち据えた。
「――何しよるんやッ!」
京司の怒声が、まだ眠りの中にあった河川敷の空気を切り裂いた。
水面に激しい飛沫が上がり、直後、
刺すような川の冷たさが鈴華の全身を支配する。
静まり返った朝の景色の中で、京司の荒い呼吸と、川下へと流れていく水音だけが異常に大きく響いていた。
「おまえ、どういうつもりやねん!」
京司は躊躇うことなく川へ跳びこんだ。濁った水飛沫が上がり、
バランスを崩して倒れ伏す鈴華の体を抱き起こす。
彼女の髪はたっぷりと水を含んで重く、肌にどろりと張り付いていた。
「おい、どないなつもりやねん……答え言うてみぃ!」
京司の怒鳴り声が周囲の空気を震わせる。だが、飛び石の上に立つ男は、
彫刻のような無表情で眼下の光景を見下ろしているだけだった。
ただ無表情に、水底を這う鈴華の無残な姿を、
虚空を見つめるような瞳で見下ろしている。
その冷徹な眼差しの中に、
京司という存在は最初から刻まれてなどいないかのようだった。
