洛陽夜曲

バーテンダーの視線が、錨の投げた言葉の端にわずかに遊んだ。

抑揚を削ぎ落とした無機質な表情そのままに、
ワイングラスを磨き上げる指先を止めることもなく、
彼は静寂を裂いて問いを放った。


「――どちらの鈴木さんですか」


対する錨は、相手の懐に潜り込むような人懐っこい笑みを口元に湛え、
短く応じた。


「花屋の……さ。おそらくね」※花屋…女性を派遣する風俗業


錨の言葉を、バーテンダーは無機質な沈黙で受け流した。
その視線は手元のワイングラスに吸い付けられたままだ。
リズミカルに動く布の音だけが、不自然なほど鮮明に
カウンターに響いている。

錨はグラスの底に溜まったバーボンを、一息に喉へ叩き込んだ。


「九条組の若頭補佐、その名を出して構わない」


吐き出された声は低く、そして重い。
彼はそれ以上の言葉を惜しむように席を立った。
カウンターの隅に数枚の札を無造作に放り出すと、
一度も振り返ることなく店を出ていく。

重厚なドアが閉まる音と共に、夜の湿った空気が一瞬だけ入り込み、
そしてまた、元の静まり返ったアルコールの匂いに塗り潰された。

〝鈴木〟――。

この街の至る所に溢れ、誰の記憶にも残らないその姓は、
舗道の亀裂に染み出す汚水のように、裏社会の境界線で
別の意味を帯びて変質する。

それは特定の個人を指す名ではない。情報の断片を切り売りし、
死臭のする真実を扱う「掃除屋」や「情報屋」たちが共有する、
実体のない幽霊のような暗号である。

錨の気配が扉の向こうへと消え、店内の空気はせき止められたように
静まり返った。
スピーカーから漏れる古いブルースの掠れた歌声だけが、
湿り気を帯びた夜の輪郭をなぞっている。
そこはもう、誰の目も届かないバーテンダー一人の、完結した世界だった。

彼は手元のワイングラスに最後の一拭きを加え、透かして見る。
一点の曇りもないことを確かめると、音もなく棚の奥へとそれを戻した。
一息つき、彼はカウンターの端に据えられた、時代に取り残されたような
アンティークな固定電話へ視線を落とした。


「――もしもし鈴木さん?お仕事です」