洛陽夜曲

翌朝 京司の足は組事務所へと向かっていた。
薄暗い事務所のドアを開けると、使い古されたエアコンの稼働音、
微かに漂うタバコのヤニ臭さが京司を迎えた。


「お疲れ様です!」


短く挨拶を投げると、ソファに深く腰掛けていた若衆達が
慌てて背筋を伸ばす。
京司はそれを手で制し、部屋の奥へと足を向けた。

組事務所という場所は、世間がイメージするような怒号が常に飛び交う修羅場ではない。
むしろ、停滞した空気の流れる気怠い待合室に近い。
壁に掲げられた代々の組指針、神棚の線香の匂い、
そして常につけっぱなしのテレビから流れるニュース番組。
京司がそこに座っているだけで、事務所の空気はわずかに密度を増す。
彼は自分から多くを語らない。
ただ、手元の灰皿に吸い殻が積み重なっていくのを眺めながら、
時折、誰かが持ってきた書類に目を通したり、
電話の応対をする組員の背中を黙って見守ったりしている。


「カシラ、お茶淹れ直しますか?」


京司は短く「いい」とだけ答え、煙を天井に吐き出した。

“カシラ”…組の皆京司のことをそう呼んでいる。
若衆たちの口から「カシラ」という呼び名が放たれるたび、
京司の脳裏には昨日の鈴華の残像がふいに浮上した。

彼女が最初にその名を口にした瞬間のことだ。

振り返れば、その呼び名は彼にとって、皮膚の一部も同然だった。
組の者たちのみならず、彼を取り巻く世界の住人たちは、
敬意や畏怖、あるいは諦念を込めて彼を“カシラ”と定義する。

けれど、鈴華だけは違った。

他の誰に呼ばれても波立たない心が、彼女の時だけは、
まるで清らかな水面に泥を投じられるのを恐れるかのように、
頑なに門を閉ざした。

なぜ、彼女にだけは「カシラ」であってはならなかったのか。
鈴華という存在にだけは、その言葉を向けられることを頑なに
拒絶してしまった。
喉元まで出かかったその呼び名を遮った時の、
自分でも説明のつかない奇妙な疼き。

京司は、胸の奥底に澱のように溜まったその
「正体不明の感情」を、静かに噛み砕いていた。


「…今日は錨は顔出してるか?」


「錨補佐は今日はまだです」


京司はしばしの沈黙に身を委ね、スマートフォンを取り出すと、
滑らかな画面をなぞり、

“錨”と名付けられたその番号を呼び出した。