洛陽夜曲

“お兄ぃ”という、彼女の唇から放たれるにはあまりに不釣り合いな言の葉に、
京司は不意を突かれた。

その一言が、彼の中に築かれていた彼女の虚像を、瓦解させていった。


「あ……」


その言葉が唇からこぼれ落ちた瞬間、鈴華の心臓が大きく跳ね上がった。


「君、お兄さんおったんかいな」


「外では“若頭”と呼ばないといけないんでした」


静止画のように固まっていた京司が、その一言に弾かれたように反応した。


「どういう事や」


その短い問いかけには、困惑と焦燥が綯い交ぜになっていた。


「私の兄槇村宏一は六穣会若頭です」


鈴華の淡々とした述懐は、静まり返った室内に無機質な足跡を残していく。

そのあまりに苛烈な真実に、
京司は肺の空気をすべて奪われたかのように絶句した。


「そうやったな……。六穣会の若頭は槇村会長のご子息やったな」


ようやく絞り出したその独白は、苦い砂を噛むような響きを帯びていた。


「お兄さんも香港から来はったんか?」


「いえ。兄は日本人です。大阪で槇村の父に拾われたと聞いています」


「…拾われた?」


「父も兄も私も皆、私達に血縁はありません」


「…でも家族です」


「そうか…」


「お兄ぃ、なんて呼ぶほどに随分慕っとるんやな」


「今現在もですが…私が日本に来たばかりの頃、父の槇村は仕事でほとんど
大阪にはいませんでした。そんな私の面倒を見てくれたのが兄の宏一です」

運ばれてきた盆の上で、透き通った葛切りが春の柔らかな光を
撥ね返している。
会話を続けながら鈴華は箸先でそれをそっと持ち上げ、黒蜜の海を泳がせた。


「…美味しい」


口に含んだ瞬間、驚きに目を細める。ひんやりとした滑らかな舌触りのあと、
濃厚な蜜の香りが鼻を抜け、体中の緊張がふわりと解けていく。


「キラキラして…宝石みたい」


「それはよかったわ。甘いもん好きなんやなぁ」


甘味を喜ぶ鈴華のあどけない横顔に、京司はふと眼差しを細めた。
知れば知るほど奥行きを増す彼女の魅力に翻弄されながらも、
ふいに脳裏をよぎる“宏一”の名に、思考が微かに凍りつく。
まだ見ぬその兄への想いは、憧憬とも、嫉妬とも、あるいはもっと冷ややかな
峻別ともつかぬ、複雑な澱となって彼の胸に沈殿していった。