洛陽夜曲

「あんたえらいやられたようやな。いけるか?」


「はい……なんとか。危ないとこありがとうございました」


裂けた唇から溢れる鉄の味を、京司は手の甲で無造作に拭った。

男に差し出した謝辞は、空気に触れた瞬間に凍りつく。

その男が背負う影の濃さは、どうしようもなく“裏”そのものだった。

皮膚を粟立たせるような底知れぬ威圧感に、京司は彼が“表”の
住人ではないことを、ただ直感していた。


「あないな輩がうろついてるのんはようないなぁ」


誰に向けるでもなく吐き捨てられたその一言が、背後の静止した空気を
震わせた。それは沈黙の規律を破る、目に見えぬ号令。
男たちが呼応するのに、視線も言葉も必要なかった。

彼らはただ一息に、影が伸びるような滑らかさで、
護衛の数名を除き闇の中へとその身を躍らせた。


「あんちゃん…立てるか?」


打ち据えられた全身の肉が悲鳴を上げ、京司の意識は混濁の淵にあった。
膝が笑い、視界が爆ぜる。それでも彼は立ち上がった。

男は射抜くような眼差しで京司を見つめた。やがて、その口元に零れたのは
嘲笑ではない。泥中に咲いた蓮華を見るかのような、
静かな感銘を孕んだ微笑だった。

男は京司の目を凝視した。
それは瞳の奥の深淵を覗くかのような鋭い眼光だった。


「よぅないなぁ。そないな死んだ魚みたいな目ぇして」


「……」


男の顔から険がふっと消えた。


「---ワシのとこ来るか?あんたの望みがなんかなんて知らへんが…
あんたが今見てる景色を変えることくらいなら、できるかもしれへんで」


その声が、京司の鼓膜を震わせた。

ずっと深い泥の中に沈んでいたような感覚が、不意に鮮明な色彩を取り戻す。

止まっていた秒針が、一度だけ大きく跳ねた。

その言葉が、京司の内で凍てついていた時計の歯車を震わせた。
止まっていた刻が、静かに、しかし確かな鼓動を伴って再び脈打ち始める。


「望みなんて・・・別にあらしません。けど…あんたの隣を
歩いていった先に、どないな景色が広がってるんか…
それを見てみとうなりましたわ」


---祇園の喧騒に身を投じたあの一夜から、
果たしてどれほどの季節が巡ったことだろう。

極道という苛烈な生業にその身を投じた京司が、ようやく辿り着いたのは
“若頭”という孤高の頂であった。

漆黒の光沢を纏ったドイツ製のセダンは、夜の底に沈んだ古都を、
滑るような静寂とともに切り裂いていく。
本革のハンドルを握る京司の指先には、路面から伝わる微かな振動が、
まるで心臓の鼓動のように冷たく響いていた。

フロントガラスの向こう側、流灯のように過ぎ去っていく
街灯のオレンジ色や、古い格子戸の隙間から漏れる淡い生活の残照。

しかし、その瞳に映っているのは、
歴史の重みに塗りつぶされた美しい街並みなどではなかった。

京司の目には、一体何が映っているのだろうか。

それは、自分という男の空虚な輪郭か。
あるいは、どれほど贅を尽くした闇で塗り潰しても消し去ることのできない、
過去の断片か。

流れる灯火はただ、彼の瞳の奥に広がる底知れない“虚無”を、
ただ照らし出しているだけだった。