洛陽夜曲

数多の女たちの中に早苗という女がいた。
京司にとって、彼女は指の間をすり抜けて消えた
幾多の砂粒の一つに過ぎなかった。

彼の記憶のフォルダに、彼女の居場所はもうなかった。
かつて肌を重ねた記憶さえ、使い捨てのライターを失くしたとき程度の、
取るに足らない喪失でしかない。

名さえも既に忘却の彼方へ消え去り、その面影は
摩耗した銀貨のように輪郭を失っていた。

一方、女の時間はあの日から一歩も進まず、止まったままでいた。
京司という存在に、自分の人生の決定権をすべて明け渡してしまった報いだ。
男が自分を忘却の彼方に追いやれば追いやるほど、
その空っぽの背中に向けて、彼女の情念だけが寄生植物のように
しぶとく根を伸ばしていた。


まとわりつく女の執着を疎ましく思いながらも、京司の視線の先にはもう、
別の女が映っている。焼けるような嫉妬と、
プライドを土足で踏みつけられた屈辱。その果てに訪れたのは、
感情が死に絶えたような静かな絶望だった。

取り残された彼女の心象風景は、どす黒い嫉妬に塗りつぶされ、
奈落への一途を辿る。


(壊してしまおう…。誰の指も触れられないように)


その瞬間、彼女の中で何かが音を立てて千切れ、ブレーキが効かなくなった。

深夜の祇園。京司は指先の煙草を燻らせ、石畳の路地を彷徨うように歩く。
その瞳には確かに街の灯が焼きついているはずなのに、
彼の意識の奥までは届かない。
風景と自己の間に横たわる、埋めようのない空白。
目の前の景色を見ているのではなく、その背後に広がる深い欠落を
凝視しているようだった。

突如、迷路のような路地の隙間から、数名の男たちが溢れ出した。
京司が声を上げる暇もなく、
数本の腕が彼を闇の奥へと強引に引きずり込んでいった。

「なんや、お前ら……っ!?」

乾いた叫びは、無機質な壁に吸い込まれ消えた。返答はない。
代わりに飛んできたのは、重い肉塊を叩きつけるような鈍い音。
理由も言葉も介在しない、ただただ純粋で一方的な暴力が、
京司の意識を無慈悲に塗り潰していった。


(…ここで死ぬんかいな?まあええか)


意識の輪郭が淡く滲み、世界との境界が曖昧になっていく。
京司は、自分という存在が静かに閉じていくのを、
どこか他人事のように眺めていた。

それは、逃れようのない終わりというよりは、ようやく訪れた
“許し”に近いものだった。
絶望の淵に沈むのではなく、光に満ちた深い眠りへと誘われる感覚。
京司は静かに目を閉じた。


「…ぎょうさんで寒い事しよるなぁ」 ※寒い…悪い事


喧騒の余韻を残す大路の方角から、唐突に声が投げ込まれた。
凄惨な空間にありながら、その響きには驚愕の欠片も混じらない。
ただ凍てついた静謐を湛え、事も無きことのように、淡々と言の葉を紡ぎだした。


「誰…や…」


凝固し始めた血と、絶え間なく溢れる汗が、糊のように瞼を拒んでいる。
それを力任せに引き剥がし、濁った視界を声の主へと投げた。

視線の先にいたのは、静寂な威厳を纏った男だった。
初老と呼ぶには血気盛んで、壮年と呼ぶにはあまりに老獪な面構え。
背後に控える黒服を纏った鉄塊のような男達が沈黙の壁となって控えていた。


それまでの虚勢が嘘のように、京司を襲った男たちは
崩れ落ちるように背を向けた。
足をもつれさせ、互いの肩を突き飛ばしながら、
石畳にひどく不快な音を奏で、男たちは闇の奥へ消えていった。

京司はその場に立ち尽くし、
さっきまでの喧騒を遠い出来事のように感じていた。
まるで自分だけが世界の時間の外側に放り出されてしまったかのような、
白々とした空白の中に、彼は独り、取り残されていた。