烏丸京司は江戸時代から続く京都の老舗呉服店の次男として生まれた。
京司が八歳年下の弟として生を受けた瞬間、この家の均衡は脆くも崩れ去った。
兄の京弥は決して劣等であったわけではない。
どこにでもある良質な凡庸を備えた少年であった。
しかし、京司という存在が家族の寵愛を寡占していくにつれ、
京弥を包囲する日常の輪郭は変容を余儀なくされていった。
運命は、京司にだけあまりに多くの贅を尽くした。
京司に備わった知性と身体能力は、凡庸な努力を嘲笑うほどに完成されていた。
少年期にして「神童」の称号をほしいままにした彼を前に、
両親が心酔していくのは、もはや抗いがたい自然の摂理であった。
一家の均衡は、一人の天才の誕生によって、静かに、だが決定的に
崩壊の一途をたどった。
“店の跡を継ぐのは、京司をおいて他にない“――。
それは誰もが胸の内に秘めながら、言葉にすることさえ野暮に感じるほどの、
無言の総意となっていた。ただひとり、当の京司だけを除いて…。
己を讃える声が満ちるほどに、彼はその輪から疎外されていく。
向けられる称賛は彼にとっての祝福ではなく、自由を少しずつ奪う
甘く重たい鎖に過ぎなかった。
泥中にあっても、京弥は弟に対する慈愛を失わなかった。
彼は一言も自らの不遇を語らず己が身に降りかかる理不尽を呑み下していた。
---今でも京司は、夢の中で古都の石畳を歩いている。
隣を行く兄の視線はいつも遠く、届かぬ空を彷徨っていた。
その横顔には近づきがたいほどの哀しみがあった。その一瞬の、
硝子細工のように脆い表情を京司は今も夜の淵で繰り返し追い続けている。
月日は流れ、京司は古都の秀才たちが集う名門校へと足を踏み入れた。
その名は京都の街の隅々にまで響き渡っていたが、
当の本人は机にかじりつくような真似を、周囲に見せる事はなかった。
それにもかかわらず、張り出される成績表の最上段には
常に“烏丸京司“という文字がまるで当然であるかのように居座っていた。
その時期の彼は、内面的な深化に呼応するように容姿においても
他を圧倒し始めていた。完璧な角度で引かれた瞳のライン
重力を感じさせない睫毛、知性を象徴するような鼻筋。
人々がこぞって彼に惹かれるのは、もはや抗いようのない
自然現象に近いものだった。
京弥が店で仕事を始めたのはその時期のことだった。
跡取り息子という厳然たる事実はあったが、それはあくまで
形式上の記号に過ぎなかった。
彼は継ぐべき家業のただ中にありながら、誰の目にも映らぬ幻の後継者であった。
「俺は店を継ぐ気はあらへん。継ぐのんは兄貴や」
格子戸の向こうへ幾度となく放たれた彼の言の葉は、
京の湿った空気に吸い込まれ、ついに誰の耳にも届くことはなかった。
名家の看板を背負わせんとする周囲の執着は、
香炉から立ち上る煙のように粘り強く彼を絡め取っていった。
京司が八歳年下の弟として生を受けた瞬間、この家の均衡は脆くも崩れ去った。
兄の京弥は決して劣等であったわけではない。
どこにでもある良質な凡庸を備えた少年であった。
しかし、京司という存在が家族の寵愛を寡占していくにつれ、
京弥を包囲する日常の輪郭は変容を余儀なくされていった。
運命は、京司にだけあまりに多くの贅を尽くした。
京司に備わった知性と身体能力は、凡庸な努力を嘲笑うほどに完成されていた。
少年期にして「神童」の称号をほしいままにした彼を前に、
両親が心酔していくのは、もはや抗いがたい自然の摂理であった。
一家の均衡は、一人の天才の誕生によって、静かに、だが決定的に
崩壊の一途をたどった。
“店の跡を継ぐのは、京司をおいて他にない“――。
それは誰もが胸の内に秘めながら、言葉にすることさえ野暮に感じるほどの、
無言の総意となっていた。ただひとり、当の京司だけを除いて…。
己を讃える声が満ちるほどに、彼はその輪から疎外されていく。
向けられる称賛は彼にとっての祝福ではなく、自由を少しずつ奪う
甘く重たい鎖に過ぎなかった。
泥中にあっても、京弥は弟に対する慈愛を失わなかった。
彼は一言も自らの不遇を語らず己が身に降りかかる理不尽を呑み下していた。
---今でも京司は、夢の中で古都の石畳を歩いている。
隣を行く兄の視線はいつも遠く、届かぬ空を彷徨っていた。
その横顔には近づきがたいほどの哀しみがあった。その一瞬の、
硝子細工のように脆い表情を京司は今も夜の淵で繰り返し追い続けている。
月日は流れ、京司は古都の秀才たちが集う名門校へと足を踏み入れた。
その名は京都の街の隅々にまで響き渡っていたが、
当の本人は机にかじりつくような真似を、周囲に見せる事はなかった。
それにもかかわらず、張り出される成績表の最上段には
常に“烏丸京司“という文字がまるで当然であるかのように居座っていた。
その時期の彼は、内面的な深化に呼応するように容姿においても
他を圧倒し始めていた。完璧な角度で引かれた瞳のライン
重力を感じさせない睫毛、知性を象徴するような鼻筋。
人々がこぞって彼に惹かれるのは、もはや抗いようのない
自然現象に近いものだった。
京弥が店で仕事を始めたのはその時期のことだった。
跡取り息子という厳然たる事実はあったが、それはあくまで
形式上の記号に過ぎなかった。
彼は継ぐべき家業のただ中にありながら、誰の目にも映らぬ幻の後継者であった。
「俺は店を継ぐ気はあらへん。継ぐのんは兄貴や」
格子戸の向こうへ幾度となく放たれた彼の言の葉は、
京の湿った空気に吸い込まれ、ついに誰の耳にも届くことはなかった。
名家の看板を背負わせんとする周囲の執着は、
香炉から立ち上る煙のように粘り強く彼を絡め取っていった。
