洛陽夜曲

やがて車は衣笠開キ町へと辿り着いた。華やかな京の喧騒を背に

そこには取り残されたような静寂が横たわっている。時が凪ぎ穏やかな光が満ちるなか、二人は車を降りた。

京都、紙屋川。かつて御土居の西端を流れていたその川の砂防ダム内部には

法と地図の隙間に埋もれた「集落」が存在する。

その場所は、地図の上ではただの「川」であり、「ダム」だった。

しかし、コンクリートの巨大な壁の向こう側には、戦後から時間が止まったままの剥き出しの“現実”がそこにある。

湿った風が谷底を吹き抜ける。頭上を走る現代的な道路の喧騒は、ここまでは届かない。

聞こえるのは、コンクリートの隙間を縫うように流れる水の音と、古びたトタンが風に震える乾いた音だけだ。

ダムの堤体、その巨大な影に寄り添うようにして建てられたバラックの群れ。

それらは、地面から生えてきたというよりは、増水するたびに流されまいと、

互いの肩を寄せ合って岩場にしがみついているように見えた。



二人は誘われるように、ダムの内懐へと通じる狭隘な入り口に立つ。

その境界線の先には、未知の静寂が待ち受けていた。


「ここは、忘れられた場所や」


前を行く彼の独白は、湿り気を帯びた空気に溶けて消えた。

舗装はとうに寿命を迎え、無数に走る亀裂が歩行を拒んでいた。左右から牙を剥く雑草を掻き分け進むたび、

乾いた葉の音が鳴る。視線の先、かつて誰かの営みがあった家屋は、今や自らの重みに耐えかねて沈黙し、

剥がれかけの「立入禁止」の札だけが、現世との境界線を辛うじて繋ぎ止めている。

かつてそこにあったはずの賑わいは、今は土壁のひび割れや、風に晒された木の肌のなかに

深く吸い込まれてしまったかのようだ。

集落の底を這うように流れる細い川のほとりには時代から取り残されたような家々が、

互いの肩を寄せ合って沈黙していた。

手前の一軒は、錆びたトタン屋根にいくつもの年月を塗り重ね、破れを塞ぐ青いビニールシートが、

まるで癒えぬ傷口を覆う包帯のように寒空の下で翻っている。

灰色の空の下、川音だけが絶え間なく時を刻み続けている…ここは都市の喧騒が届かない場所だった。


「驚いたんとちがうか?」


「…何がですか?」


崩れゆく世界の縮図のようなこの場所で、彼女は驚くほど自然に溶け込んでいた。

毒を毒とも思わぬその佇まいに、彼は悟らざるを得なかった。

その異様なほどの調和に、彼は底知れぬ深淵を覗き込んだような衝撃を隠せなかった。


「…若頭」


「京司や」


「え?」


「組のものでもあらへん人間に役職で呼ばれたない」


「…では烏丸さん」


「京司でええ。苗字で呼ばれるのんは好かん」


「…京司さんはここに来られた事があるのですか?」


「ああ。まだ部屋住みやっとった若い頃、兄貴分の命令でキリトリに来た事があったな。…えらい昔の話や」

※部屋住み…新米の組員が組事務所内で寝泊まりし、雑用や組長の世話をすること。
 キリトリ…借金の取り立て 


視線を遥か彼方の空へと投げたまま、京司は肺に溜まった澱みを吐き出すように白煙を燻らせた。

指先から零れた煙草の煙は、風の指先に弄ばれるまま空へと散り、やがて意志を持たぬ雲の一部となって、

高い空へと還っていった。