洛陽夜曲

「なら行こか」


男は、今まさに車中へと身を沈めようとする背中に向かって、絞り出すような声を投げた。


「おやめください。あそこは…カシラのようなえらい方が、
行かれるようなところじゃあらしません!」


「ほう…お前このお嬢はん一人で行かすちゅうんか?」


彼の冷徹な声と、突き刺さる視線の鋭さに、男の思考は瞬時に凍りつき、
わずかな身じろぎさえも忘れたかのように硬直した。
それでも、男は震える喉の奥から、絞り出すようにその言葉を解き放った。


「じ、自分がこのお嬢さん衣笠開キ町まで連れて行きます!」


その言葉は、男にとって抗いようのない「理」であった。

若頭という「看板」に傷がつく。その代償として、己の指や命が如何に無力であるか。

男はその残酷なまでの非対称さを、誰よりも深く、噛み締めていた。


彼は男の提案を咀嚼するように、細められた瞳の奥で視線を彷徨わせた。
短くなった吸い殻を指先から放ると、

乾いた土の上に落ちた火種を靴の先で無造作に踏み砕く。
薄い煙が靴底から這い出し、空気の中に霧散した。

彼は首を回し、少し離れた場所に立つ鈴華を視界に捉えた。


「君、先に車に乗りや」


鈴華は一言も発さずに従った。

車内の薄闇へと身を滑らせるその動きは、まるで絹糸が解けるように
滑らかで、洗練された静寂そのものであった。


切なる訴えが通じたという確信が、男の胸に一筋の灯火をともした。

しかし、その温もりはあまりに儚い理想でしかなかった。

それは「誤解」という名の冷たい一吹きによって、
一瞬にしてかき消された儚い幻想だった。


「お前ここまででええわ。後は俺が彼女を連れて行くさかい」


「…へっ?」


言葉を交わす余地など、はじめから存在しなかったのだ。

困惑に染まる男の顔を置き去りにし、彼は機械的な冷徹さでアクセルを踏む。

車は滑らかに地面を噛み、修復不能なほど遠ざかっていった。

男の喉からは言葉にならない慟哭が溢れ、必死にその影を追った。

しかし、彼を嘲笑うかのように車輪の音は遠のいていき、
彼の眼前に広がるのはもう誰もいない一本の道だけとなった。


「…よろしいのですか?」


「かまへん。あそこからなら組事務所は歩いて帰れる場所やさかい」


自らステアリングを握り、愛車を駆る彼の横顔には、
言いようのない充足が滲んでいた。
内ポケットから探り当てた煙草を唇に挟み、手慣れた所作で火を灯す。
オイルライターが放つ鈍色の光と、小さく弾ける金属音。立ち上る紫煙は、
彼の静かな愉悦をなぞるように、車内に淡く溶けていった。


(あいつと二人きりになんかさせられへんわ)
彼はその思考を、喉の奥にそっと閉じ込めた。