洛陽夜曲

今にも朽ち果てんとする木扉、男はそこを軽く、
だが焦燥を隠しきれない手つきで叩く。

口をついて出たのは、この土地の者には理解し得ない母国の乾いた響き。

男が叫ぶ異国の言葉は、どこか特定の名を呼んでいるようにも聞こえた。

しばしの静寂。やがて、重い拒絶を解くように扉が荒々しく震えて開き、
その奥に沈殿していた薄暗がりのなかから
深い皺を刻んだひとりの老女が、亡霊のように姿を現した。


「어르신(オレシナ)」


男は、扉の奥から現れた老女に対して、そ
の粗暴な風貌とはかけ離れた丁寧な会釈を返した。

対する老女は、彫り込みの深い無表情を崩そうとはしない。
視線すら交わらない。

しかし、二人がその特有の言語を口にした瞬間、張り詰めていた空気の密度がわずかに変わった。

それは他者の介在を許さない、親密で閉鎖的な対話だった。

隔たった距離を越えて届く、低く湿った男の声と、
乾いた紙をなぞるような老女の独白。

二人の語らいを少し離れた場所から見守っていた鈴華だったが、時折混じる見知らぬ国の言葉が耳を打つたび、その瞳に微かな動揺のさざ波が広がった。


「君、朝鮮語わかるん?」


鈴華の様子をじっと窺っていた彼は、思いがけないその反応に
そっと彼女に問いかけた。


「日常会話程度であれば理解できます」


「……出生は香港。母国語は広東語か」


静寂の中に、低い声が響いた。


「それに加えて日本語と朝鮮語まで…君は一体何者なん?」


「九龍城塞には多国籍の様々な人種が住んでいたので、
朝鮮や韓国の人も沢山いましたから。自然と耳で覚えました」


鈴華は怪訝そうに彼を凝視した。
彼の眼差しに唐突に映ったものが、何を問われたものなのか、
彼女には見当もつかなかったからだ。


「…九龍城塞やと?」


彼女の言葉を耳にした途端、穏やかだった眉根が険しく寄せられた。
彼はただ黙然として、その溝に落ちていく言葉の残響を聞いていた。