君に一生分の休みを。

冬の朝の空気は、刃物のように冷たく澄んでいた。
久我は、目覚めたばかりのサクラに「少し散歩に出る」とだけ言い残し、村外れの竹林へと向かった。その懐には、昨夜拾い上げた、血の通わないほどに白い手帳が収められている。
「……出てこい。神だか死神だか知らんが。私の『助手』に余計な毒を吹き込んだのは貴様なのだろう」
返事はない。ただ、笹の葉が擦れ合う音がザワザワと響く。だが、久我の眼光は一点を見据えて動かない。
「いつまで隠れんぼを楽しむつもりだ? 条件を言え。……彼女を『こちら側』に固定するために、何が必要だ。私の命か? それとも、誰かの魂か?」
「……ほんと物騒な男だね」
不意に、頭上の松の枝から退屈そうな声が降ってきた。
月明かりを背負い、朔がひらりと舞い降りる。新月のように底知れない黒い瞳が、久我の「執念」を愉しげに観察していた。
「君の命? いらないよ。……彼女はね、もうとっくに支払いを済ませているんだ。あの日、瀕死の君を救うために、彼女は自分の存在を支える残り時間……『有給休暇』を大量に放り出した」
朔は三日月のような笑みを浮かべ、久我の鼻先まで顔を近づけた。
「君の傷が塞がるたび、彼女の指先は透けていく。君が健やかであればあるほど、彼女はこの世界から弾き出される。……皮肉だよね、軍師様。君が愛しているその女を殺しているのは、他ならぬ、君自身の『生』なんだよ」
久我の全身から、血の気が引いた。自分が呼吸をするたびに、愛する女の命を啜っている――。
「……どうしても彼女を助けたいなら、せいぜい怪我をしないことだね。軍師様」
朔が闇に消えた後、久我は一人、拳を血が滲むほど強く握りしめた。
寺子屋に戻ると、サクラがいつもと変わらぬ様子で朝餉の支度をしていた。その細い手首が、朝日の加減か、一瞬だけ透けて見えた気がして、久我の心臓が鋭く脈打つ。
「サクラ君。約束してくれ」
久我は彼女の傍らに歩み寄り、その両肩を力強く、だが震えるのを堪えるように掴んだ。
「今後、何があっても私のために『力』は使わないと。たとえ私が目の前で死にかけたとしても、だ。……絶対に、指一本動かすな」
サクラは驚いたように目を見開き、すぐに悲しげに眉を下げて首を振った。
「……それは、できません。先生が傷つくのを、黙って見ているなんて……そんなの、絶対に嫌です」
「命令だ」
「命令でも、これだけは聞けません! 私のことはどうなってもいいんです。でも、先生が……!」
「私のためだと言うなら、なおさらだ!」
久我の声が、静かな朝の台所に激しく響いた。サクラは言葉を失い、怯えたように肩を震わせる。久我は痛みに顔を歪め、彼女の額に自分の額をそっと預けた。その声は、もはや命令ではなく、祈りに近かった。
「……頼む、サクラ君。君を削ってまで繋ぎ止める命など、私には重すぎる。君がいなければ、傷のない身体になど何の意味もないんだ。……私に、これ以上の罪を背負わせないでくれ」
久我の切実な熱量に、サクラは唇を噛み締め、長い沈黙のあと、絞り出すような声で「……はい」と答えた。
彼女に術を使わせる口実を、一瞬たりとも与えない。自分が健やかであるほど彼女が消えるというのなら、せめてこれ以上の代償を支払わせぬよう、すべての災厄を彼女の手が届かぬ場所で叩き伏せる。
それは、愛した女の命を啜って生き永らえてしまった男が、己に課した唯一の償いだった。