君に一生分の休みを。

冬の終わりを告げる雨は、凍てつくように冷たかった。
深夜、寺子屋の勝手口が弱々しく開き、一人の男が滑り込むように崩れ落ちた。板間にぶつかる鈍い音と共に、鉄錆に似た血の匂いが冷えた空気に混じる。
「……先生!?」
異変に気づいたサクラが部屋を飛び出し、行灯を掲げて息を呑んだ。
そこには、漆黒の装束を鮮血で汚した久我宗介がいた。右肩から脇腹にかけて深く裂かれ、傷口からは毒を塗られた刃特有の、どす黒い血が溢れ出している。
「来るな……サクラ君……。奥へ、戻れ……」
久我の声は掠れ、吐き出す息には死の匂いが混じっていた。
夜の村を守るための裏の仕事。これまでは危なげなくこなしてきたが、今夜の敵は執拗だった。毒が回った四肢はもはや感覚がなく、軍師としての冷徹な思考さえも、急速に遠のく意識の中で瓦解していく。
「そんな、嘘でしょう……。先生、待ってください、今すぐ……!」
サクラの手が、かつてないほど激しく震える。
久我は朦朧とする意識の中で、彼女をこの凄惨な現実に触れさせたくないと願った。だが、身体は泥のように重く、伸ばそうとした手は空を切り、虚しく床に落ちる。
(……ここまで、か)
死を覚悟し、瞳を閉じようとしたその瞬間。
視界を覆う闇の中に、まばゆいばかりの「光」が溢れ出した。
「嫌……。死なせない。絶対に、死なせない……!」
サクラの叫びが、久我の鼓動を強引に呼び戻す。
彼女は泥と血にまみれた久我を抱き寄せ、その真っ青な唇に、迷わず自分の唇を重ねた。
「っ……!?」
唇から、圧倒的なまでの「生」の奔流が流れ込む。
ドロドロと濁っていた毒が霧散し、ズタズタだった肉体が、内側から熱を帯びて急速に再生していく。命の灯火が消えかけていた久我の身体に、強引に「時間」が継ぎ足されていく、抗いようのない神聖な感覚。
だが、驚愕に目を見開いた久我が次に見たものは、あまりに過酷な光景だった。
「サクラ、君……」
久我を抱きしめる彼女の手が、指先から手首にかけて、行灯の光を透かして床の板目が見えるほど、淡く消えかけていたのだ。
「……気味が悪いでしょう? 先生。私、本当はこの世界の人間じゃないんです」
サクラは、透明になった自分の指を見つめ、震える声で告白を続けた。
彼女の瞳からこぼれ落ちる涙さえ、地面に届く前に光の粒となって消えていく。
「先生に、こんな顔をさせたくなかった。……ただ、隣にいたかったんです。美味しいご飯を作って、子供たちと笑って……先生がいつか本当の幸せを掴むまで、少しだけ、長く、お休みを楽しみたかっただけなのに」
「サクラ君、もういい……喋るな……!」
「気味悪がられるのが怖くて、ずっと言えませんでした。ごめんなさい、こんな化け物みたいな姿……」
久我は、再生したばかりの力強い腕を伸ばし、透けてしまった彼女の指先を、強引に包み込んだ。
掴んでいる感触すらおぼつかないほどに淡い。それでも、久我は決して離さなかった。
「……何を、言っている。君がどこの世界の住人であろうと、そんなことは私の知ったことではない。私が今、掴んでいるのは君の手だ。……違うか?」
「……え?」
「化け物などと、二度と口にするな。……計算違いをさせた責任は、取ってもらう。君が何者であれ、私の『助手』であることに変わりはない。……いいな?」
久我は彼女を抱き寄せ、その実体の薄い身体を、自身の生身の熱で強く、折れんばかりに抱きしめた。
この時、久我はまだ「人ならざる彼女が、不思議な術で自分を治してくれた」としか思っていなかった。その奇跡の裏で、彼女の命が砂時計のように削り取られたことなど、思いもしなかったのだ。
「……はい、先生……っ」
サクラは久我の胸の中で、静かに目を閉じた。
久我の温もりを感じるたびに、彼女の腕の透明感は少しずつ収まり、元の柔らかな肌の色へと戻っていく。
静寂の中、雨音だけが響く。
久我は眠りに落ちた彼女を抱きしめたまま、その額に自分の額を寄せた。
「……よく休め、サクラ。明日は、私が飯を作る」
夜の仕事を終えた軍師は、救われた己の身体の「軽さ」に、形容しがたい不安を覚えながらも、ただ彼女の体温を確かめ続けた。