陽に「いつお嫁さんにするの」と問われ、久我が「さすがに傷つく」と零したあの日から、数日が過ぎた。
久我はあの言葉を「教育者としての矜持が傷ついたのだ」と、必死に自分に言い聞かせていた。
そんなある朝。いつもなら一番に起きて炊事場にいるはずの桜が、起きてこなかった。
「……サクラ君?」
久我が声をかけると、布団の中から「すみません、先生……少し、体が重くて……」と、熱に浮かされたような声が返ってきた。
軍師として、常に冷静沈着であろうとする久我が、この時ばかりは目に見えて狼狽した。
「陽! 凪! サクラ君が病だ。お前たちは勝手に飯を食って寺子屋の掃除をしろ。私は粥を作ってくる!」
「えっ、先生が作るの? 大丈夫?」
「……うるさい、黙っていろ!」
久我は袖をまくって台所に立った。
だが、戦場では神の如き采配を見せる軍師も、台所ではただの不器用な男だった。火加減に悩み、野菜を切る手つきもおぼつかない。額に汗を浮かべ、何度も溜息をつきながら、ようやく一杯の粥を作り上げる。
「……サクラ君。粥を持ってきた。少しでも食べなさい」
桜の枕元に座り、久我は慣れない手つきで粥を匙ですくう。
桜は、熱のせいか、それとも別の理由か――少しだけ肌が透けて見えるような、儚い美しさを湛えて彼を見上げていた。
「先生……ありがとうございます。お忙しいのに、こんなことまで……」
「……君がいないと、この屋敷がどれほど回らないか痛感しただけだ。」
そっけない言葉を返しながら、久我が彼女の額に手を触れた時だった。
熱い。けれど、それ以上に、彼女が今にも指先から零れ落ちて、消えてしまいそうな実体のなさを、その肌から感じてしまった。
「……っ」
桜が、ふと、熱に浮かされた瞳で彼を見つめ、細い指先で久我の羽織の袖をぎゅっと掴んだ。
「先生…… 私、ずっと、先生の側にいたいです……」
その、縋るような声。
陽にからかわれた時に「恐れ多い」と笑っていた彼女の、隠しきれなかった本音が漏れた瞬間。
その時、久我の中で、堰を切ったように何かが決壊した。
(……ああ、そうか)
彼女がいない朝の静寂が、これほどまでに恐ろしかった理由。
不慣れな炊事に四苦八苦しながらも、彼女のために何かをしたいと必死になっていた理由。
「お嫁さん」という言葉に、怒りよりも、どうしようもない焦燥を感じていた理由。
軍師としての冷徹な計算も、教師としての理性も、すべてが瓦解した。
(……私は、この娘に生きていてほしいのではない。私の隣で、笑っていてほしいのだ)
自分は、この正体も知れぬ、明日をも知れぬ女性を、どうしようもなく――一人の男として、愛しているのだと。
「……サクラ」
久我は、初めて「君」を付けずに、彼女の名前を呼んだ。
それは、彼が自分の「恋」を、逃げ場のないほど鮮明に自覚した瞬間だった。
久我はあの言葉を「教育者としての矜持が傷ついたのだ」と、必死に自分に言い聞かせていた。
そんなある朝。いつもなら一番に起きて炊事場にいるはずの桜が、起きてこなかった。
「……サクラ君?」
久我が声をかけると、布団の中から「すみません、先生……少し、体が重くて……」と、熱に浮かされたような声が返ってきた。
軍師として、常に冷静沈着であろうとする久我が、この時ばかりは目に見えて狼狽した。
「陽! 凪! サクラ君が病だ。お前たちは勝手に飯を食って寺子屋の掃除をしろ。私は粥を作ってくる!」
「えっ、先生が作るの? 大丈夫?」
「……うるさい、黙っていろ!」
久我は袖をまくって台所に立った。
だが、戦場では神の如き采配を見せる軍師も、台所ではただの不器用な男だった。火加減に悩み、野菜を切る手つきもおぼつかない。額に汗を浮かべ、何度も溜息をつきながら、ようやく一杯の粥を作り上げる。
「……サクラ君。粥を持ってきた。少しでも食べなさい」
桜の枕元に座り、久我は慣れない手つきで粥を匙ですくう。
桜は、熱のせいか、それとも別の理由か――少しだけ肌が透けて見えるような、儚い美しさを湛えて彼を見上げていた。
「先生……ありがとうございます。お忙しいのに、こんなことまで……」
「……君がいないと、この屋敷がどれほど回らないか痛感しただけだ。」
そっけない言葉を返しながら、久我が彼女の額に手を触れた時だった。
熱い。けれど、それ以上に、彼女が今にも指先から零れ落ちて、消えてしまいそうな実体のなさを、その肌から感じてしまった。
「……っ」
桜が、ふと、熱に浮かされた瞳で彼を見つめ、細い指先で久我の羽織の袖をぎゅっと掴んだ。
「先生…… 私、ずっと、先生の側にいたいです……」
その、縋るような声。
陽にからかわれた時に「恐れ多い」と笑っていた彼女の、隠しきれなかった本音が漏れた瞬間。
その時、久我の中で、堰を切ったように何かが決壊した。
(……ああ、そうか)
彼女がいない朝の静寂が、これほどまでに恐ろしかった理由。
不慣れな炊事に四苦八苦しながらも、彼女のために何かをしたいと必死になっていた理由。
「お嫁さん」という言葉に、怒りよりも、どうしようもない焦燥を感じていた理由。
軍師としての冷徹な計算も、教師としての理性も、すべてが瓦解した。
(……私は、この娘に生きていてほしいのではない。私の隣で、笑っていてほしいのだ)
自分は、この正体も知れぬ、明日をも知れぬ女性を、どうしようもなく――一人の男として、愛しているのだと。
「……サクラ」
久我は、初めて「君」を付けずに、彼女の名前を呼んだ。
それは、彼が自分の「恋」を、逃げ場のないほど鮮明に自覚した瞬間だった。
