ある日の午後。桜が夕餉の買い出しのために村へ下り、寺子屋には久我と陽の二人だけが残されていた。
静かな室内で筆を走らせていた久我だったが、墨を擦る陽がじっとこちらを覗き込んでいることに気づき、顔を上げた。
「……何だ、陽。手が止まっているぞ」
「ねえ、先生。先生はいつサクラ姉ちゃんをお嫁さんにするの?」
「……ぶっ!?」
久我は、あからさまに吹き出した。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
「だって、先生さ。サクラ姉ちゃんと目が合うとすぐ顔を逸らすし、サクラ姉ちゃんが村の男の人と話してると、すっごく怖い顔して見てるだろ? 早くしないと、サクラ姉ちゃん、別の誰かにとられちゃうよ?」
「と、とられる……?」
久我は絶句した。軍師として「奪われる」という事態の危うさは嫌というほど知っている。だが、教え子の目から見ても自分の独占欲がそこまで露骨だったとは。
「……陽。彼女は私の助手だ。そのような不埒な……」
「あ、サクラ姉ちゃんお帰りー!」
ちょうどそこへ、買い物籠を抱えた桜が戻ってきた。久我は慌てて書物に目を落としたが、陽の勢いは止まらない。
「ねえ、サクラ姉ちゃん! 今、先生とお嫁さんの話してたんだ。サクラ姉ちゃんはお嫁に行きたいとか思わないの? 例えば、先生なんてどう?」
「ええっ!? 私が、先生のお嫁さんに……!?」
桜は、持っていた籠を落としそうになるほど激しく動揺した。
「そ、そんなの……恐れ多いよ! 先生は、私にとって光みたいな、雲の上の存在なんだから。私みたいな『ただの助手』が、そんな大それたこと……滅相もないです、本当に!」
桜は必死だった。いつか消える自分には分不相応な幸せだと、自分に言い聞かせているがゆえの猛反論だった。
しかし、桜がいない間に「とられるぞ」と散々脅されていた久我にとって、その徹底した拒絶は、予想以上に心に堪えた。
「……サクラ君」
久我が、低く、どこか力なく筆を置く。
「……何もそこまで、全力で否定しなくてもいいだろう。……さすがに、私だって少しは傷つくのだが」
「えっ……? い、先生……?」
「はぁ……。陽、お前もだ。余計な世話を焼く暇があるなら、早くその『一、二、三』を練習しろ。……全く、君たちは……」
久我は額を押さえ、心底疲れ果てたように深く溜息を吐いた。
だが、その耳の先は、隠しようもなく赤く染まっている。
「とられる」という陽の言葉が、そして桜の「恐れ多い」という拒絶が、久我の中にあった独占欲の種に、じわじわと火をつけていた。
(……雲の上、だと? 私はいつまで、彼女にとっての『生身の男』になれずにいるのだ)
かつての鬼軍師は、幼い子供の言葉と、愛おしい助手の謙虚さに、ここまで翻弄される自分を自嘲するしかなかった。
一方で桜は、久我の「傷つく」という意外な弱音に、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていたが、同時に、隠した袖の中で指先が不意に冷たくなり、僅かに輪郭を失いかけていることに、まだ気づかずにいた。
静かな室内で筆を走らせていた久我だったが、墨を擦る陽がじっとこちらを覗き込んでいることに気づき、顔を上げた。
「……何だ、陽。手が止まっているぞ」
「ねえ、先生。先生はいつサクラ姉ちゃんをお嫁さんにするの?」
「……ぶっ!?」
久我は、あからさまに吹き出した。
「な……何を、馬鹿なことを……!」
「だって、先生さ。サクラ姉ちゃんと目が合うとすぐ顔を逸らすし、サクラ姉ちゃんが村の男の人と話してると、すっごく怖い顔して見てるだろ? 早くしないと、サクラ姉ちゃん、別の誰かにとられちゃうよ?」
「と、とられる……?」
久我は絶句した。軍師として「奪われる」という事態の危うさは嫌というほど知っている。だが、教え子の目から見ても自分の独占欲がそこまで露骨だったとは。
「……陽。彼女は私の助手だ。そのような不埒な……」
「あ、サクラ姉ちゃんお帰りー!」
ちょうどそこへ、買い物籠を抱えた桜が戻ってきた。久我は慌てて書物に目を落としたが、陽の勢いは止まらない。
「ねえ、サクラ姉ちゃん! 今、先生とお嫁さんの話してたんだ。サクラ姉ちゃんはお嫁に行きたいとか思わないの? 例えば、先生なんてどう?」
「ええっ!? 私が、先生のお嫁さんに……!?」
桜は、持っていた籠を落としそうになるほど激しく動揺した。
「そ、そんなの……恐れ多いよ! 先生は、私にとって光みたいな、雲の上の存在なんだから。私みたいな『ただの助手』が、そんな大それたこと……滅相もないです、本当に!」
桜は必死だった。いつか消える自分には分不相応な幸せだと、自分に言い聞かせているがゆえの猛反論だった。
しかし、桜がいない間に「とられるぞ」と散々脅されていた久我にとって、その徹底した拒絶は、予想以上に心に堪えた。
「……サクラ君」
久我が、低く、どこか力なく筆を置く。
「……何もそこまで、全力で否定しなくてもいいだろう。……さすがに、私だって少しは傷つくのだが」
「えっ……? い、先生……?」
「はぁ……。陽、お前もだ。余計な世話を焼く暇があるなら、早くその『一、二、三』を練習しろ。……全く、君たちは……」
久我は額を押さえ、心底疲れ果てたように深く溜息を吐いた。
だが、その耳の先は、隠しようもなく赤く染まっている。
「とられる」という陽の言葉が、そして桜の「恐れ多い」という拒絶が、久我の中にあった独占欲の種に、じわじわと火をつけていた。
(……雲の上、だと? 私はいつまで、彼女にとっての『生身の男』になれずにいるのだ)
かつての鬼軍師は、幼い子供の言葉と、愛おしい助手の謙虚さに、ここまで翻弄される自分を自嘲するしかなかった。
一方で桜は、久我の「傷つく」という意外な弱音に、心臓が爆発しそうなほど高鳴っていたが、同時に、隠した袖の中で指先が不意に冷たくなり、僅かに輪郭を失いかけていることに、まだ気づかずにいた。
