きみが春なら

「おい。サツがきてるぞ」
ある日の仕事中。
休憩していた控え室でそんな声が聞こえた。
「本当だ」
「誰だぁ?やらかしたの」
笑いながらどやどやと窓際に集まる仲間たち。関係ないとわかっていても背中に嫌な汗が流れる。

「入ってきたぞ」
「見たことない車だな?なんて書いてある」
「ロシア……警察?」

心臓が鷲掴まれたかと思った。
鞄を持ち、誰にも気付かれないよう部屋を飛び出した。

背後を気にしつつ対面の窓にまわる。外に人影は無い。逃げるなら今しかないが、ここは三階だ。
迷う時間も惜しかった。

「い!って、」

意を決して飛び降り着地した瞬間。右の足首に激痛が走り、思わず声をあげてしまった。
「やべ……」
立ち上がろうとしてもあまりの痛みに顔が歪み、額には脂汗が浮かぶ。変な捻り方をしたのかもしれない。
遠くから足音が近づいてくるが、動けない。

「……っ」

── ここまでか、と
一瞬思った。


真っ黒なスーツを着た一人の男が、こちらへ走ってくる。
警察の制服じゃない。が、違うとも言えない。
念入りに辺りを見回した男は、やがて去っていった。

身を隠した草むらの陰でふ、と小さく息を吐く。とりあえずこの場はやり過ごせたらしい。
咄嗟に足跡を消しておいてよかった。


じんじん痛む足を引きずり、山の中まで逃げてきた。疲弊しきった体を横たえると背中の下で枯れ草がぱり、と鳴る。
冬も間近に迫っていた。深く息を吸い込むと肺いっぱいに冷たい空気が入り込む。
頭上に広がるのは、抜けるような青空だ。

諦めそうになった直前。脳裏に浮かぶのは、やっぱり君の顔で。
俺が死んだら泣くだろうな、と思ったら自然と体が動いていた。

離れても、俺は彼女に生かされている。
目を閉じる度、瞼の裏で笑う君に。

「……ハル」

あの時。
行かないで、と言われていたら彼女を連れて逃げたかもしれない。
本当は俺自身もそれを望んでいたのかもしれない。
だけど感情に任せ全てを捨てるほど、君が子どもじゃない事も知っていた。

最近は少し落ち着いていたのに。もう少しだけほとぼりが冷めたら迎えに行けると思ってたのに。
神様はまだ俺を許しちゃくれないらしい。


……ごめん、なんて言葉じゃ
もう済まされないよな。

愛してる、って
まだ言う資格はあるのかな。


俺以外の奴とだったら
君はとっくに幸せになってたのかな。