車のドアが静かに閉まった瞬間、外の世界が遠のいた気がした。
黒塗りの車内は驚くほど静かで、革の匂いが微かに漂っている。
奈々は自分の指先がまだ震えていることに気づき、膝の上でそっと握りしめた。
怖かった。
遅れて実感が押し寄せる。
さっきまで正常に動いていたはずの思考が、今になって崩れていく。
「水、飲むか」
隣から差し出されたペットボトルを受け取る。
指先が触れた瞬間、諒の手の温度が伝わった。
大きくて、温かい。
その体温だけで、胸の奥に張り詰めていた糸がゆるむ。
奈々は一口、水を飲んだ。
喉の奥がやっと動く。
「……情けないなあ、私」
ぽつりと漏れる。
救命の現場では、怒号も血も死も受け止めてきた。
どんな修羅場でも動けるように、自分を鍛えてきた。
なのに。
外に出た途端、声も出せず、足も動かなくなった。
「情けなくない」
即答だった。
諒は前を向いたまま言う。
「現場で踏ん張ってるやつほど、日常で無理しがちなんだよ。お前はちゃんと怖がれた。だから折れねぇ」
淡々としているのに、妙に芯がある。
慰めではなく、事実のように言う。
奈々は思わず小さく笑った。
「なにそれ」
「事実」
短い返事。
でも、救われる。
窓の外の街灯が流れていく。
さっきまで全身を支配していた恐怖が、もうほとんど残っていないことに奈々は気づいた。
代わりにあるのは、安心。
そして、少しだけ――居心地の良さ。
「……諒」
呼ぶと、彼がこちらを見る。
鋭いのに優しい視線。
「助けてくれて、ほんとにありがとう」
改めて言うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
諒は一瞬だけ奈々を見て、それから視線を戻した。
「奈々が無事なら、それでいい」
それだけだった。
大げさな言葉も、格好つけた態度もない。
でもその一言が、どれだけ本気かは分かる。
鼓動が少し速い。
これは恐怖の残りじゃない。
「……諒の隣、落ち着くんだよね」
言ってから、少しだけ後悔する。
けれど諒は笑わなかった。
「昔からだろ」
静かな声。
「お前、泣くとすぐ俺の後ろに隠れてた」
小学生の頃、雷に怯えた夜。
野良犬に追いかけられた日。
奈々はいつも諒の背中に隠れていた。
あの背中は、昔から大きかった。
そして今は、危うい世界を背負っているのに――
それでも、安心してしまう。
「変なの」
奈々は小さく笑う。
「怖いはずなのに、諒のそばだと平気」
諒は答えない。
しばらくしてから、ぽつりと。
「怖くていい。でも無理すんな」
低く、静かな声だった。
車が奈々の家の前で止まる。
ドアに手をかけながら、一瞬だけ躊躇する。
もう少し、この空間にいたいと思ってしまう自分がいる。
でも、それ以上は踏み込めない。
踏み込んだら、何かが変わる。
「今日は本当にありがとう」
そう言って車を降りる。
夜風が頬を撫でる。
ドアが閉まり、諒の車がゆっくりと走り去っていく。
奈々はしばらく、その場から動けなかった。
助けられた安心。
まだ残る恐怖。
それ以上に、胸の奥に残る熱。
あの腕の強さも、低い声も、名前を呼ぶ響きも、まだ体に残っている。
「……奈々?」
背後から声。
心臓が跳ねる。
振り向くと、颯太が立っていた。
コンビニ袋を持ったまま、少し戸惑った顔。
その視線が、諒の車が消えた方向に流れる。
「今の……諒、だよね」
確認のような声。
奈々は一瞬、言葉を失う。
「ちょっと……助けてもらったの。トラブルになりそうで」
それは事実。
でも、それだけじゃない。
颯太は「そっか」と短く言った。
沈黙が落ちる。
「怖かった?」
優しい声。
「うん……結構」
あの瞬間を思い出す。
諒が前に立ったときの圧倒的な安心感。
――守られている、と確信した感覚。
「そっか……」
颯太は奈々を見つめ、それから目を逸らす。
「……奈々、最近ちょっと変わった気がする」
胸がきゅっと縮む。
「え?」
「責めてるわけじゃない。ただ……諒が戻ってきてから、奈々の中で何か動いてるっていうか」
図星だった。
奈々は否定できない。
颯太は苦笑する。
「俺さ、奈々のこと昔から見てるから分かる。今、ちょっと揺れてるでしょ」
優しさが痛い。
「……分かんない」
それが精一杯。
颯太が一歩近づく。
「俺、正直ちょっと不安なんだよ」
はっきりと言う。
「さっき車から降りた奈々、なんかさ……守られた顔してた」
胸を射抜かれる。
言い返せない。
「でも責めないよ。あいつ、昔から奈々のヒーローみたいなとこあったし」
冗談めかしているのに、笑えていない。
「たださ」
颯太の声が少しだけ低くなる。
「俺もちゃんと、奈々の隣にいたいんだよ」
その言葉が、静かに沁みる。
奈々は迷いながら、颯太の袖をそっと掴む。
無意識だった。
「……帰ろっか。一緒に」
小さな声。
颯太は奈々を見つめ、それから頷いた。
歩き出す。
距離は近い。
でも、前みたいな無邪気さはない。
それでも。
手を離さなかったのは、どちらも同じだった。
颯太の手は、昔と変わらず温かい。
なのに。
さっき触れた体温が、まだ指先に残っている。
消えてくれない。
それを、消したくないと思っている自分がいる。
黒塗りの車内は驚くほど静かで、革の匂いが微かに漂っている。
奈々は自分の指先がまだ震えていることに気づき、膝の上でそっと握りしめた。
怖かった。
遅れて実感が押し寄せる。
さっきまで正常に動いていたはずの思考が、今になって崩れていく。
「水、飲むか」
隣から差し出されたペットボトルを受け取る。
指先が触れた瞬間、諒の手の温度が伝わった。
大きくて、温かい。
その体温だけで、胸の奥に張り詰めていた糸がゆるむ。
奈々は一口、水を飲んだ。
喉の奥がやっと動く。
「……情けないなあ、私」
ぽつりと漏れる。
救命の現場では、怒号も血も死も受け止めてきた。
どんな修羅場でも動けるように、自分を鍛えてきた。
なのに。
外に出た途端、声も出せず、足も動かなくなった。
「情けなくない」
即答だった。
諒は前を向いたまま言う。
「現場で踏ん張ってるやつほど、日常で無理しがちなんだよ。お前はちゃんと怖がれた。だから折れねぇ」
淡々としているのに、妙に芯がある。
慰めではなく、事実のように言う。
奈々は思わず小さく笑った。
「なにそれ」
「事実」
短い返事。
でも、救われる。
窓の外の街灯が流れていく。
さっきまで全身を支配していた恐怖が、もうほとんど残っていないことに奈々は気づいた。
代わりにあるのは、安心。
そして、少しだけ――居心地の良さ。
「……諒」
呼ぶと、彼がこちらを見る。
鋭いのに優しい視線。
「助けてくれて、ほんとにありがとう」
改めて言うと、胸の奥がじんわり熱くなる。
諒は一瞬だけ奈々を見て、それから視線を戻した。
「奈々が無事なら、それでいい」
それだけだった。
大げさな言葉も、格好つけた態度もない。
でもその一言が、どれだけ本気かは分かる。
鼓動が少し速い。
これは恐怖の残りじゃない。
「……諒の隣、落ち着くんだよね」
言ってから、少しだけ後悔する。
けれど諒は笑わなかった。
「昔からだろ」
静かな声。
「お前、泣くとすぐ俺の後ろに隠れてた」
小学生の頃、雷に怯えた夜。
野良犬に追いかけられた日。
奈々はいつも諒の背中に隠れていた。
あの背中は、昔から大きかった。
そして今は、危うい世界を背負っているのに――
それでも、安心してしまう。
「変なの」
奈々は小さく笑う。
「怖いはずなのに、諒のそばだと平気」
諒は答えない。
しばらくしてから、ぽつりと。
「怖くていい。でも無理すんな」
低く、静かな声だった。
車が奈々の家の前で止まる。
ドアに手をかけながら、一瞬だけ躊躇する。
もう少し、この空間にいたいと思ってしまう自分がいる。
でも、それ以上は踏み込めない。
踏み込んだら、何かが変わる。
「今日は本当にありがとう」
そう言って車を降りる。
夜風が頬を撫でる。
ドアが閉まり、諒の車がゆっくりと走り去っていく。
奈々はしばらく、その場から動けなかった。
助けられた安心。
まだ残る恐怖。
それ以上に、胸の奥に残る熱。
あの腕の強さも、低い声も、名前を呼ぶ響きも、まだ体に残っている。
「……奈々?」
背後から声。
心臓が跳ねる。
振り向くと、颯太が立っていた。
コンビニ袋を持ったまま、少し戸惑った顔。
その視線が、諒の車が消えた方向に流れる。
「今の……諒、だよね」
確認のような声。
奈々は一瞬、言葉を失う。
「ちょっと……助けてもらったの。トラブルになりそうで」
それは事実。
でも、それだけじゃない。
颯太は「そっか」と短く言った。
沈黙が落ちる。
「怖かった?」
優しい声。
「うん……結構」
あの瞬間を思い出す。
諒が前に立ったときの圧倒的な安心感。
――守られている、と確信した感覚。
「そっか……」
颯太は奈々を見つめ、それから目を逸らす。
「……奈々、最近ちょっと変わった気がする」
胸がきゅっと縮む。
「え?」
「責めてるわけじゃない。ただ……諒が戻ってきてから、奈々の中で何か動いてるっていうか」
図星だった。
奈々は否定できない。
颯太は苦笑する。
「俺さ、奈々のこと昔から見てるから分かる。今、ちょっと揺れてるでしょ」
優しさが痛い。
「……分かんない」
それが精一杯。
颯太が一歩近づく。
「俺、正直ちょっと不安なんだよ」
はっきりと言う。
「さっき車から降りた奈々、なんかさ……守られた顔してた」
胸を射抜かれる。
言い返せない。
「でも責めないよ。あいつ、昔から奈々のヒーローみたいなとこあったし」
冗談めかしているのに、笑えていない。
「たださ」
颯太の声が少しだけ低くなる。
「俺もちゃんと、奈々の隣にいたいんだよ」
その言葉が、静かに沁みる。
奈々は迷いながら、颯太の袖をそっと掴む。
無意識だった。
「……帰ろっか。一緒に」
小さな声。
颯太は奈々を見つめ、それから頷いた。
歩き出す。
距離は近い。
でも、前みたいな無邪気さはない。
それでも。
手を離さなかったのは、どちらも同じだった。
颯太の手は、昔と変わらず温かい。
なのに。
さっき触れた体温が、まだ指先に残っている。
消えてくれない。
それを、消したくないと思っている自分がいる。
