夕方の空は、夜へ沈みきる一歩手前の色をしていた。
救命の忙しさがようやく途切れ、奈々は少し遅れて病院を出た。
張り詰めていた神経がゆるみ、足がほんの少し重い。
今日はもう、何も考えずに帰りたかった。
近道のつもりで入った裏道は、人通りがなく、やけに静かだった。
ビルの隙間を抜ける風が冷たい。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
――コツ、コツ。
数歩進んだところで、背後に別の足音が重なった。
気のせいだと思う。
でも、歩調を速めると、その音も同じだけ速くなる。
心臓が一つ、大きく鳴った。
振り返る。
昼間の救急外来で騒いでいた男だった。
理不尽な怒り。
ねっとりとした視線。
体が覚えている。
「さっきは冷たかったよな、看護師さん」
笑っている。
でも目が濁っている。
距離が、近い。
「もう帰りますので……」
声がかすれる。
横を抜けようとした瞬間、腕を掴まれた。
強い。
骨が軋む。
一瞬で体温が下がる。
頭が真っ白になる。
呼吸がうまくできない。
喉が締まる。
逃げなきゃ。
分かっているのに、足が動かない。
視界が狭くなる。
音が遠のく。
――助けて。
声が出ない。
手首を引かれ、壁に押しつけられそうになった、そのとき。
「――その手、離せ」
低い声。
怒鳴っていない。
それなのに、空気が変わる。
奈々の視界の端に、黒い影が入る。
諒だった。
黒いコート姿。
表情はほとんど動いていない。
ただ、目だけが冷たい。
その背後に、黒塗りの車。
無言で立つ男たち。
異様な圧。
男の手が、ゆっくり緩む。
諒が一歩近づく。
それだけで、男は完全に手を離した。
何か言い訳をしようと開いた口が、途中で止まる。
逃げるように去っていく足音。
奈々はまだ、動けない。
膝が震えている。
手が冷たい。
呼吸が浅い。
諒が奈々の前に立つ。
視界を遮るように。
「怪我は」
低い声。
いつもの諒の声。
奈々は答えようとして、うまく言葉にならない。
喉が震える。
その瞬間、諒の腕が背中に回る。
強くはない。
でも確実に支える力。
「大丈夫だ」
短い言葉。
胸に額が触れる。
鼓動が近い。
温かい。
さっきまで凍っていた体が、ゆっくり溶けていく。
気づけば、奈々は諒の服を掴んでいた。
自分でも驚くほど、強く。
怖い。
本当に、怖かった。
でも。
もっと怖いのは――
諒の腕の中で、
震えが止まっていくことだった。
安心してしまう。
黒塗りの車も、無言の男たちも、
全部見えているのに。
それでも。
この体温のほうを、選びたくなる。
そのことが、何より怖かった。
救命の忙しさがようやく途切れ、奈々は少し遅れて病院を出た。
張り詰めていた神経がゆるみ、足がほんの少し重い。
今日はもう、何も考えずに帰りたかった。
近道のつもりで入った裏道は、人通りがなく、やけに静かだった。
ビルの隙間を抜ける風が冷たい。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
――コツ、コツ。
数歩進んだところで、背後に別の足音が重なった。
気のせいだと思う。
でも、歩調を速めると、その音も同じだけ速くなる。
心臓が一つ、大きく鳴った。
振り返る。
昼間の救急外来で騒いでいた男だった。
理不尽な怒り。
ねっとりとした視線。
体が覚えている。
「さっきは冷たかったよな、看護師さん」
笑っている。
でも目が濁っている。
距離が、近い。
「もう帰りますので……」
声がかすれる。
横を抜けようとした瞬間、腕を掴まれた。
強い。
骨が軋む。
一瞬で体温が下がる。
頭が真っ白になる。
呼吸がうまくできない。
喉が締まる。
逃げなきゃ。
分かっているのに、足が動かない。
視界が狭くなる。
音が遠のく。
――助けて。
声が出ない。
手首を引かれ、壁に押しつけられそうになった、そのとき。
「――その手、離せ」
低い声。
怒鳴っていない。
それなのに、空気が変わる。
奈々の視界の端に、黒い影が入る。
諒だった。
黒いコート姿。
表情はほとんど動いていない。
ただ、目だけが冷たい。
その背後に、黒塗りの車。
無言で立つ男たち。
異様な圧。
男の手が、ゆっくり緩む。
諒が一歩近づく。
それだけで、男は完全に手を離した。
何か言い訳をしようと開いた口が、途中で止まる。
逃げるように去っていく足音。
奈々はまだ、動けない。
膝が震えている。
手が冷たい。
呼吸が浅い。
諒が奈々の前に立つ。
視界を遮るように。
「怪我は」
低い声。
いつもの諒の声。
奈々は答えようとして、うまく言葉にならない。
喉が震える。
その瞬間、諒の腕が背中に回る。
強くはない。
でも確実に支える力。
「大丈夫だ」
短い言葉。
胸に額が触れる。
鼓動が近い。
温かい。
さっきまで凍っていた体が、ゆっくり溶けていく。
気づけば、奈々は諒の服を掴んでいた。
自分でも驚くほど、強く。
怖い。
本当に、怖かった。
でも。
もっと怖いのは――
諒の腕の中で、
震えが止まっていくことだった。
安心してしまう。
黒塗りの車も、無言の男たちも、
全部見えているのに。
それでも。
この体温のほうを、選びたくなる。
そのことが、何より怖かった。
