あの公園で、君に会えたら

地元の駅前は、夕方になると昔と同じ匂いがした。

潮を含んだ湿った空気と、帰宅する人たちのざわめき。
改札を抜ける波が途切れ、夜へ向かう街がゆっくり形を変えていく。

奈々はその中を一人で歩いていた。

仕事帰りのはずなのに、足取りがどこか落ち着かない。

諒が戻ってきてからというもの、心の重心がずっと揺れている。

幼馴染で、許婚。

その言葉は昔からそこにあったはずなのに、五年という時間が間に横たわるだけで、意味が変わってしまう。

横断歩道で信号を待っていたときだった。

向かい側に、諒の姿を見つける。

それだけなら、もう珍しくはない。
帰国してから何度か顔を合わせている。

けれど今日は違った。

諒の隣に、見知らぬ女性がいた。

距離が近い。

迷いのない並び方だった。

奈々の胸の奥で、小さく何かが軋む。

信号が青に変わる。

人の流れに押されるようにして歩き出すと、自然と三人の距離が縮まっていった。

諒が奈々に気づく。

ほんの一瞬、足が止まる。

その横で、女性も視線を上げる。

綺麗な人だ、と奈々は思った。

柔らかい雰囲気なのに、芯のある目をしている。
諒が惹かれそうなタイプだと、妙に納得してしまう自分がいる。

すれ違う直前、女性が口を開いた。

「……諒、この方?」

その呼び方が自然すぎて、奈々の胸にまた小さな痛みが走る。

諒はすぐに答えなかった。

ほんのわずかな迷いのあと、静かに言う。

「奈々だよ。俺の幼馴染で——」

言葉が止まる。

奈々は、その続きを待ってしまった。

けれど、女性のほうが小さく息を整えた。

「初めまして。遠藤若菜です。諒とお付き合いしています」

はっきりした声だった。

隠す様子も、挑む様子もない。

ただ事実を差し出すような落ち着いた言い方。

若菜は一度だけ諒を見上げ、それから奈々へ視線を戻す。

「海外にいる間、ずっと一緒だったんです」

さらりとした口調。

でもその言葉は重い。

奈々が知らなかった時間。
若菜が共有していた時間。

諒は何も言わない。

その沈黙が、何よりも現実だった。

若菜は続ける。

「さっき諒から聞きました。奈々さんが……許婚だって」

空気が、わずかに張りつめる。

奈々は諒を見る。

諒は苦い表情のまま、視線を落としている。

五年前、何も言わずにいなくなった人。
帰ってきたら、別の人と恋人になっていた人。
それでも家同士の約束だけは、まだ消えていない人。

全部が一度に押し寄せる。

怒りでも、嫉妬でもない。

長く信じていたものが、静かに形を変えていく痛み。

奈々は深く息を吸う。

泣きそうになるのを押し戻す。

「そうなんだ……教えてくれてありがとう」

自分でも驚くほど穏やかな声だった。

若菜がわずかに戸惑う。

奈々には、誰かを責める資格がない気がしていた。

五年間、諒の隣にいたのは自分じゃない。

それが現実だ。

「奈々」

諒が低く呼ぶ。

昔と同じ声なのに、距離だけが違う。

奈々は小さく首を振る。

「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」

本当は、大丈夫じゃない。

胸がじんわり痛む。

でもそれを見せたら、もっと惨めになる気がした。

「じゃあ、またね」

それだけ言って、奈々は二人の横を通り過ぎる。

背中に諒の視線を感じる。

振り向けば、何かが変わるかもしれない。

でも振り向かなかった。

今、諒の隣にいるのは若菜だ。

その事実だけが、はっきりしている。

夜風が少し強くなる。

歩きながら、奈々は気づく。

胸が痛いのは、諒に恋人がいるからだけじゃない。

そこに、自分の入る隙間はない。

その感覚が、こんなにも静かに刺さるなんて。

それはきっと——

五年前、諒が感じたものと同じだった。



気づけば、公園に足が向いていた。

街灯に照らされたブランコが、風に揺れている。

変わらない景色。

でも、心だけが落ち着かない。

ベンチに腰を下ろしたとき、スマホが震えた。

颯太からだった。

『今近く。行っていい?』

奈々は思わず小さく笑う。

悩んでいるときほど、颯太は近くにいる。

『うん、公園いる』

数分後、本当に颯太は現れた。

軽く手を上げるだけの挨拶。

急いできたはずなのに、それを見せないところが彼らしい。

「やっぱここか」

隣に腰を下ろす。

奈々は頷く。

しばらく、言葉はなかった。

夜の公園は静かで、遠くの道路の音だけがかすかに響く。

やがて奈々が口を開いた。

「今日ね、諒と若菜さんに会った」

颯太の表情が、わずかに引き締まる。

でも何も言わず、奈々の肩にそっと手を置く。

責めない。

急かさない。

その温度に、奈々の胸が少し緩む。

「諒、海外にいる間ずっと付き合ってたみたい」

言葉にすると、やっぱり少し痛い。

「許婚の話も、若菜さん知らなかったみたいで……なんか、私だけ取り残された感じした」

自分でもうまく整理できない気持ち。

颯太は静かに聞いている。

「私、ちょっとだけ気持ち揺れてたかも。諒が戻ってきて……昔の延長みたいに思っちゃってた」

言葉にするのは勇気がいった。

でも、ここで曖昧にしたくなかった。

「でも違うね」

奈々は顔を上げる。

「私の恋人は颯太だし、今隣にいてほしいのも颯太」

その瞬間、颯太の目がわずかに揺れる。

安堵と、ほんの少しの切なさ。

「……それ、ちゃんと聞けてよかった」

低い声。

奈々の手をそっと握る。

温かい。

ゆっくりと距離が縮まる。

急がない。

確かめるみたいに。

唇がそっと触れる。

優しく、静かに。

奈々は目を閉じる。

胸のざわめきが、少しだけほどけていく。

離れたあとも、颯太は手を離さない。

「……大丈夫?」

奈々は小さく頷く。

「うん。なんか、やっと落ち着いた」

颯太は笑う。

いつもの、穏やかな笑顔。

でも。

奈々が目を閉じた、そのほんの一瞬。

わずかな迷いがあったことを——

颯太は、気づいていた。

それでも何も言わない。

抱き寄せる腕の力を、ほんの少しだけ強める。

守るみたいに。

夜の公園で、ブランコが小さく軋む。

今、奈々の隣にいるのは颯太だ。

その位置は、確かにここにある。

けれど——

心の奥で、まだ動ききらない何かが、

静かに揺れていた。